今回は、『「倫理の問題」とは何か』(佐藤岳詩、光文社新書)【第5章】(最終章)をご紹介します。

細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「懐疑論」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。

【第5章 日常とかかわりあいの倫理】

今まで倫理を巡ってあれこれ考察してきましたが、最終章では改めて「倫理とは何のことなのか」が問い直されます。

まず、G.E.ムーアの、倫理の問いの分類が紹介されます。すなわち、

1.「良いとは何か」
2.「どれが良いものか」
3.「良いものはどうすれば増えるか」です。

* 最後の問いは「どのように行動すべきか」と読み替えても良いと思います。
  いずれにしてもG.E.ムーアの分類は以下のような欠点があります。

(1) 1が定まらないと2が判断できない。
(2) 3を独立した問いとして扱って良いか不明である。
(3) メタ倫理(善の定義)と規範倫理(行動指針)を分けることで、理論と実践の橋渡しが不十分になり、
  実際の倫理的議論に応用しにくい。

本書ではなぜかこれ以上ムーアに深入りせず、続いてスタンリー・カヴェルの二つの倫理の問いの区別を取り上げます。

一つ目は、「私は何をなすべきか」です。
二つ目は、「悪いことをしてはならないのはなぜか」です。

一つ目の問いをクリアして、「何をするといけないのか」分かった後に、二つ目の問いが生じます。

著者は二つ目の問いに関して、「倫理とは何かを真剣に考えるためには、まず倫理の外側に立とうとする必要があります。」と述べます。

さて、私たちに倫理的な問いが生じるのは、どのような時でしょうか。本書から引用します。

「私たちは生きていく上で、自分たちのこれまでの世界との接し方にひっかかりを覚えたり、それがうまくいかなくなったりしたとき、あるいはうまくいかなそうな見込みを得たとき、これまでのやり方は本当に正しかったのか、この選択は本当に正しいのか、これから私は何をなすべきか、という問いをたてます。」

「ひっかかり」に関して著者は以下のようにも述べています。

「偏見や先入観というものは、本当に自分では気づきにくいものです。しかし、そうしたちょっとしたことに対する感受性こそ、私たちには必要なものであり、私たちは自分たち自身でそれを自覚的に育てていく必要があります。」

「ひっかかり」に目をつぶってやり過ごすことを、ミランダ・フリッカーは「解釈的不正義」と呼びました。

本書から引用します。

「解釈的不正義とは、差別的な偏見などに基づく認知的資源の不足から、人の社会的経験の重要な領域が覆い隠されてしまう不正義を指します。」

「以上を踏まえて、ここでは倫理というものを、私たちの世界との「かかわりあい」と捉えたいと思います。」
「ここで言う「かかわりあい」とは、私と世界の間の関係性、状態を表しています。私たちの特定の見方や態度に基づいて、かかわりあいという関係性は結ばれています。ここでの見方や態度には、意図は必ずしも含まれていません。」

* 意図が含まれていないとは、「こういう態度で見よう」という意図があらかじめ存在しないということです。
「むしろ、見方に基づいて意図は形成されると考えられます。」

「かかわりあい」に関連して、いわゆる「独我論」ならばどう考えるのかも問われます。

* 独我論( solipsism)とは、哲学における立場の一つで、「自分の意識(自己)だけが確実に存在すると言える」という考え方です。他人の心や外の世界が本当に存在するかどうかは、論理的には保証できないという主張です。

「その場合であっても、「私」というもの、「私という意識」にこだわるのなら、過去の自分、未来の自分、理想の自分との関係、あるいは思考の客体としての自分と主体としての自分との関係という意味で、世界は存在し、そこに倫理の問いが生じる契機はあるかもしれません。」  

* 著者は「過去の私は本当は実在しなかったのでは」という疑問には、どのように答えるのでしょうか。

「また「かかわり」ではなく、「かかわりあい」としたのは、何かが何かに一方的にかかわるのではなく、自他のかかわりはおよそ相互的なものであると考えられるからです。」

「(人はいかに生きるべきかの)選択という要素は(中略)、倫理の一側面を表しているに過ぎません。そうではなく、倫理というものはもっと不断にあるもの、無意識的なもので、ただ私たちによってそう生きられているもの、でもあるのではなでしょうか。」

* これを著者は「日常」と呼んでいます。

* 倫理を「無意識的なものであり、選択ではない」と著者が主張する時に、自分の倫理を自覚的に受け止め、責任を持つという側面は失われないでしょうか。

上記で述べたことを著者が簡潔にまとめていますので、引用します。

「倫理とは、世界とのかかわりあいのこと。それは私たちの世界の見方、私たちの世界との接し方に基づき、私たちの日常を支えている。倫理の問題とは、そのかかわりあいのゆらぎや危機に際して、日常を回復するためには、あるいは新たなより良い日常を生み出すためには、どうしたらいいかを問うもの。」

この後、第2の問い「悪いことをしてはならないのはなぜか」についてさらに考察されます。この問題は「倫理に対する懐疑論」と言うことができます。本書から引用します。

「カヴェルはこうした懐疑論に対し、それを全面的に否定することはできないと述べます。」
「(中略)懐疑論者らが求めているのは、他人の心の存在についての確信ではなく、世界からの応答であり、共感である、それゆえに、懐疑論者に相対するとは、彼らを承認することである、とカヴェルは考えます。

カヴェルの議論を応用すると以下のようになります。

「(倫理的懐疑論とは)これまで生きてきた世界とのかかわりあいが絶たれかけているという訴えです。だからこそ、これを乗り越えようとするなら、世界とのかかわりあいについての知識を与えるだけでは足りません。そうではなく、この人は再び、世界とかかわりあい、承認しあえるようになるか、ということがここでは問われています。そのため、もう一度、平穏な日常というものを信じてみる、そう思えるような関係性を取り結ぶ可能性を示すということこそが、倫理についての懐疑論に答えるということになるのではないでしょうか。」

* この説明で、独我論の倫理的見方に十分な説明を与えられているかは、私には判断できませんが、与えられていないような気がします。

* だいぶ話が抽象的になってきましたので、カヴェルの議論を整理してみましょう。
  カヴェルの考えは、日常言語哲学や道徳的完璧主義(moral perfectionism)の枠組みの中で展開されています。

* 1. 懐疑論と他者への関係

カヴェルにとって、倫理的懐疑論は他者の心や存在に対する根本的な不確実性に関連しています。これは、伝統的な認識論的懐疑論(例:外界や知識の確実性への疑問)から派生しつつも、より人間関係や道徳的次元に焦点を当てたものです。

例えば、カヴェルは『懐疑の棄権』(The Claim of Reason)の中で、他者の痛みを知ることの困難さを議論します。他者の経験を直接的に知ることはできないため、私たちは他者を「承認」(acknowledgment)する必要があると主張します。この承認は、単に他者の存在を認知するだけでなく、他者の主観性や独自性を尊重し、応答する倫理的行為です。懐疑論は、この承認の欠如や失敗によって生じる可能性があります。

  1. 日常言語と倫理

例えば、他者の言葉や行動の意味を疑うことは、他者そのものを疑うことにつながり、これが倫理的関係の破綻を引き起こす可能性があります。カヴェルにとって、倫理的懐疑論を克服するには、言語を通じた対話や相互理解への努力が不可欠です。

  1. 道徳的完璧主義と懐疑論

カヴェルの道徳的完璧主義は、倫理的懐疑論に対する一種の応答でもあります。彼は、自己と他者の関係を深めるためには、単にルールや義務に従うだけでなく、自己の変革や成長を通じて他者と真の関係を築くことが重要だと考えました。懐疑論は、他者との関係において完全な確実性を求めることの不可能性を示しますが、カヴェルはこの不確実性を受け入れつつ、他者との「会話」や「対峙」を通じて倫理的な生活を築くことを提案します。

本書に戻ります。

著者は、本書の第1章で取り上げた四つの倫理の捉え方のうち、「世界の見方そのものとしての倫理」という捉え方は、その他の規準とは一線を画すと述べ、以下のように指摘します。

「このことから、見方としての倫理を基礎として、それぞれの見方ごとに重要なものや理想、行為の仕方が定まってくるという構造をこの四つの基準の間には見出せるのではないでしょうか。」

また倫理と客観性、主観性の問題については、

「結局のところ、客観的な答えがあると考える人、ないと考える人は、それぞれに自分自身が世界や人の心の在り様をどのようなものと捉えているかを示しているのではないでしょうか。」

真理については、

「だとすると、倫理の言葉の記述的な用法とは、命をもったものとして世界を描き出すことであり、助言的な用法とは、倫理に迷う人に世界とのかかわりあいを取り戻し、その存在を回復する方法を示すことであるかもしれません。」

と述べます。

第5章の著者によるまとめです。

「(中略)倫理とは何かという問いに対する本章の結論は、倫理を私たちの日常を支える、世界とのかかわりあいと捉えるということでした。」

懐疑論に対しては、

「(中略)どんなときでもいろいろなかかわりあいが私たちを取り巻いてもいます。そうしたものを自分の都合で歪めて見ることなく、それらと丁寧に付き合いながら、そしてときにそれらの偶然性に思いを馳せながら、自分たちの日常を送っていくことが、結局のところ、倫理に対する懐疑論への応答となるのではないでしょうか。」

【本書を読み終えて】

本書を読み終えて、結局倫理学とは「メタ倫理学」のことでしかないのではないかと思いました。

本書はフリッパ・フットとヘアから始まり、アンスコムとマードック、ローティとウィリアムズ、パーフィット、カヴェルなど有名な倫理学者の説をまとめて勉強するのに最適な教材でした。

しかしながら、あくまでも著者のフィルターを通しての紹介です。
これから自分に残された課題は、これらの学者のオリジナルを翻訳や原書を通じて読み込み、本書の著者に「意味のある」異議を申し立てることだと思います。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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