前回からずいぶん間があいてしまいましたが、今回は、『今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義』(白井聡、講談社現代新書)の【第1章】の後半をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「プロレタリア」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。
【第1章 思想家マルクスの誕生】(後半)
復習しましょう。マルクスは次のように言っています。
「資本主義をつき崩すものは、人為的な改良や改善ではなく、人為を超えて到来する革命であるほかない。」
しかし、このことはプロレタリアートが無力であることを示すのではありません。それどころか、彼らは「資本主義の墓堀人」なのです。
* ここで前回の宿題となっていました「資本主義の墓堀人」(Gravediggers of Capitalism)という表現を少し詳しく説明します。この表現は、資本主義が自らの発展の中で、自身の崩壊をもたらす条件を内的に作り出すという考えを象徴しています。
* マルクスによれば、資本主義が生産力の発展を促す一方で、労働者は「搾取の増大」や「貧困と不平等の拡大」に直面します。これらにより、労働者階級は資本主義の矛盾を体現し、革命を通じて資本主義を打倒する主体となります。マルクスが「墓堀人」という比喩を使ったのは、資本主義が自らの内部で破滅の種を育てていることを強調するためです。資本家は利潤を追求するために労働者を搾取し、労働者を団結させ、革命的意識を高める条件を無意識に作り出します。労働者階級は、資本主義の仕組みを支える存在(労働力の提供者)であると同時に、その仕組みを破壊する可能性を持つ存在です。
本書に戻ります。
「以上の歴史観から、『共産党宣言』は「二段階革命論」と呼ばれる革命論を打ち出した。すなわち、どの国、社会でも、第一に封建制の社会秩序を破壊するブルジョア革命が必要であり、(中略)そして、資本主義が十全に発展した先のどこかの時点で、(中略)社会主義革命が可能になる。」
「この労働者階級による支配と、それによる資本主義の廃絶が行われる過程の段階を、後にマルクスは「プロレタリア独裁」と呼ぶことになる。」
* ここで「二段階革命論」と「プロレタリア独裁」について、もう少し詳しく掘り下げてみましょう。
* 二段階革命論とは、共産主義革命を二段階に分けて進める理論で、特に資本主義の発展が遅れた国や植民地・半植民地状態の社会で適用されるものです。第一段階は、絶対君主制や封建制度を廃止するブルジョワ民主主義革命で、第二段階は資本主義が発展した後に労働者階級が資本家階級を打倒するプロレタリア革命です。
* マルクス自身は、厳密に「二段階革命論」という用語を提唱したわけではありません。後年の解釈で二段階論として体系化されたのです。 この理論はレーニンによってロシア革命で明確に適用され、二月革命と十月革命として実践されました。しかし、この理論は、トロツキーの「永続革命論」と対立する点で、共産主義運動内の論争を生みました。
* プロレタリア独裁(dictatorship of the proletariat)とは、プロレタリアートが国家権力を掌握し、ブルジョワジーを抑圧する過渡的な国家形態を指します。これは資本主義から共産主義への移行期に必要で、生産手段の国有化、労働者評議会を通じた民主的運営、階級差別の廃止を目指します。マルクスはこれを「多数派による少数派の独裁」と位置づけ、ブルジョワ独裁の対極としました。マルクスにとって、これは階級闘争の必然的結果で、最終的に国家が消滅する共産主義への橋渡しです。
* これらの概念は後年の解釈で政治的に利用されましたが、マルクスの当初の意図は、労働者の解放と階級のない社会を目指す民主的な移行にありました。
また本書に戻ります。
「マルクス=エンゲルスが『共産党宣言』を書いた直後、一八四八年革命がヨーロッパ各地で起こった。」
* この時代的な意味とは、要するに、この時期の連動は「理論がただの机上論ではなく歴史のただ中で書かれた」ことを示すことであり、同時に「現実の革命は理念通りには進まない」という痛烈な現実認識ももたらしたということです。
しかし、ロンドンに腰を落ち着けてからのマルクスの活動は、革命運動から経済学の研究へと重心を移していくのです。その最初の成果は『経済学批判』として世に問われました。この書物は「その「序言」で「史的唯物論の定式」と呼ばれるようになる社会観・歴史観を提示していることで有名です。
岩波文庫の『経済学批判』から、一番有名な箇所を引用します。
「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。」
この部分は、マルクスの上部構造、下部構造という概念を提示しています。上部構造が「人間の意識、精神的なもの」を指すのに対して、下部構造は「経済的なもの」を指すわけですが、著者は、下部構造の中にも階層があり、「下部構造における最も根本的な要因は、「生産諸力」に見出される、と解釈したくなる。」と述べています。
* 「解釈したくなる」という記述から容易に推測できるように、この解釈は後に覆されるのですが、しばらく本書の議論を追ってみたいと思います。マルクスの論理に従えば、「生産力の発展こそ革命の根本的原動力である」ことになります。しかし、さらに次のようにも述べられます。
「そしてマルクスは、人間による人間の支配がある限り、それは本来の意味での人間の社会ではないのだ、と暗に言っている。その支配がなくなったときにはじめて、人間の本当の意味での歴史が始まるのだ、と。」
マルクスの論理に従うと、「理想郷に近づくためには、生産力の向上をひたすらめざさなければならない、ということになる。」「このような考え方は「生産力至上主義」と呼ばれ、かつてのマルクス主義においてはきわめて有力な考え方だった。」
「しかし、この論理は今日、三つの側面から見て、説得力を失っている。」
* 三つの側面を簡単にまとめてみます。
1.ソ連型社会主義が体制崩壊してしまったこと。
2.生産力を社会の進化と同一視するような見方に対する疑義が高まってきたこと。(その代表が、ジャン・ボードリヤールによる消費社会の分析と批判でした。)
3.生産力を無限に上昇させ続けることはエコロジー的破滅(ecological collapse)を招くこと。
マルクスは「生産力が生産関係を規定する」と言っておきながら、「厳密に言えば、生産力と生産関係の間には、因果関係というよりも「対応」の関係がある。」とも言っていると、著者は指摘します。このマルクスの「記述の揺れ」については、後の章で詳述されます。
いずれにしても、「生産力至上主義は必然的に技術決定論と等しくなる」のですが、「この考え方には大きな逆説が含まれている。(中略)したがって実は、技術が社会の在り方を決めているのではない。逆に、資本主義社会という社会の特定の在り方が絶えざる技術革新を要求しているのである。」
「つまり、技術=生産力の水準は、それ自体が資本主義的生産様式の超克を意味するものではない。」
マルクス自身も生産力決定論を否定している可能性がある、と著者は指摘しています。これについても次章の『資本論』の分析において、詳しく述べてみたいと思います。
この章の最後に、(社会主義体制が崩壊した)今、マルクスが読まれる意味が述べられます。
「それはマルクスが資本主義の時代を人類史のなかの一時代として見ていた、言い換えれば、やがて過ぎ去るものとして見ていたという人類史的な視点のためではないだろうか。」