今回は、『現代思想入門』(千葉雅也、講談社現代新書)の【第六章】をご紹介します。なお、最終章【第七章】ではあまりにも多彩な現代思想が論じられているので、主要な人物の名前だけ紹介するに留めさせていただきます。
細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「超越論」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。

【第六章 現代思想のつくり方】

今までの章では、フランス現代思想の代表者たるデリダ、ドゥルーズ、フーコー、ラカンが紹介されてきました。しかし、まあ正直に書いてしまいますと、それほどびっくりするような斬新な解釈があったわけではありません。ところが、本章は非常に独特な章で、私たちが自分で問題提起ができるように、「フランス現代思想のつくり方」が説明されます。(まあ、「フランス」にこだわる意味はありませんが。)さっそく本書から引用します。

「僕の仮説ですが、フランス現代思想をどうつくるかというとき、三つあるいは四つの原則を立てられると思います。それは、①他者性の原則、②超越論性の原則、③極端化の原則、④反常識の原則、です。(中略)

①他者性の原則 
基本的に、現代思想において新しい仕事が登場するときは、まず、その時点で前提となっている前の時代の思想、先行する大きな理論あるいはシステムにおいて何らかの他者性が排除されている、取りこぼされている、ということを発見するのです。(略)

②超越論性の原則
広い意味で「超越論的」と言えるような議論のレベルを想定する。(中略)超越論的なものとはカントの概念です。(中略)先行する理論では、ある他者性が排除されている、ゆえに、他者性Xを排除しないようなより根本的な超越論的レベル=前提を提示する、というふうに新たな理論をつくるのです。

③極端化の原則
(略)主張の核は、排除されていた他者性に向き合うことですが、それをひじょうに極端なかたちで提示する。排除されていた他者性Xが極端化した状態として新たな超越論的レベルを設定するのです。

④反常識の原則
そのようにある種の他者性を極端化することで、常識的な世界観とはぶつかるような、いささか受け入れにくい帰結が出てくる。しかし、それこそが実は常識の世界の背後にある、というかむしろ常識の世界はその反常識によって支えられているのだ、反常識的なものが超越論的な前提としてあるのだ、という転倒に至ります。

この後本書では、具体例として、デリダ、ドゥルーズの後に、エマニュエル・レヴィナスが登場します。レヴィナスは「存在論という極端な抽象性に抵抗する」巨大な思想家であり、今日問題となっているシオニズムとも深い関わり合いがあるので、簡単には記述できません。また別の機会に単独で取り上げることとして、千葉本人による「四つの原則」のまとめを引用してみます。

①先行する議論は、安定的なものとして構造S1を示しているが、そこからは他者性Xが陰に陽に排除されている。まずこのことに気づく。(他者性の原則)

②そこから、S1は実は根本的な構想ではない、という問題提起へと向かう。S1は根本的でなかったからXを排除せざるをえなかったのである。そこでS1を条件づける構造S2を考える。S2においてようやくXが肯定される。(超越論性の原則)

③S1にとってXは従属的、付随的だった。だが今や、Xが極端化され、Xこそが原理となるようなS2を考え、それがS1を条件づけると考えるのである。S2を定式化するために、慣例を破って新たな概念をつくることもある。(極端化の原則)

④S2を前面に押し出すと、常識と齟齬をきたすような帰結を生む。(反常識の原則)

* 本書でもふれられていますが、【第六章】のこの議論は、2016年6月4日、一橋大学にて開催された『第19回一橋大学・社会思想学会シンポジウム』における千葉雅也(当時・立命館大学)の「フランス現代思想における議論の新規性とは何か」という報告が元になっています。

* 千葉は、「現代思想家(ドゥルーズ/デリダ/バトラー等)の解釈ではなく、自ら現代思想的言説を生み出すための方法は提示されにくいが、それはある程度可能ではないか」と問題提起したのです。千葉は、現代思想を「新規性を競うゲーム」として把握し、先行議論との差別化を意識的に設計する営みだと特徴づけました。

* 簡潔に言えば、千葉雅也の「現代思想の四原則」は、現代思想を“理論内容”ではなく“思考の操作法”として可視化した点に卓越した意義があります。ただし、次のような長所と限界が見てとれます。

*長所
・方法論としての明晰化:従来「感性」「文体」として語られがちだった現代思想の作法を、分析的に四つのパターンに整理した点は独創的です。
・創造性の設計化:新規性を偶然ではなく「戦略」として捉えることで、現代思想を閉じた美学から開かれた思考技術へ転換した。
・学際的応用性:文学・芸術・社会批評など、思想以外の創造分野にも応用可能な柔軟な枠組みを提供している。

*限界
・規範化の危険:「新規性を設計する」枠組みが、かえって思想の自由な逸脱を制度化してしまう恐れがある。
・内容の希薄化:形式的原則の提示にとどまり、倫理的・政治的立場の判断基準は十分に提示されない。

* 四原則は、「現代思想の思考技法」を分析哲学的精度でモデル化した、自己反省的メタ理論としては優れています。ただし、それ自体が思想の目的ではなく、「思考の条件を意識化するための装置」として読むのが妥当です。

【第七章 ポスト・ポスト構造主義】

最終章では、21世紀に入ってから2010年代までの展開がまとめられます。しかしながら、アラン・バディウ、フランソワ・ラリュエル、ジャック・ランシエールといった、日本ではそれほど知られていない思想家が羅列されており、特にバディウなど数学の知識がないと読めないと言われており(当然私も1行も読んでおらず)、ここでは名前を挙げるだけに留めておきたいと思います。

* ここでは、21世紀の「思弁的実在論」だけ簡単に紹介しておきましょう。カンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux)の「思弁的実在論(speculative realism)」は、20世紀後半の「相関主義(correlationism)」への批判から生まれた哲学運動です。

* 現代哲学はしばしば「相関主義」と呼ばれる立場に立ってきました。これは「世界(実在)」と「意識(思考)」は常に相関しており、思考がない世界を語ることはできない、という考え方です(カント以降の伝統です)。メイヤスーはこの立場を批判し、「思考とは無関係に存在する世界(思弁的実在)」を再び語ることを目指しました。

* 中心的主張は以下のようなものです。実在は思考から独立して存在します。私たちが存在する以前の宇宙(例えば地球形成や恐竜時代など)を科学が語れるのは、その世界が思考とは無関係に実在していたからだとメイヤスーは主張します。

* 絶対的なものは「偶然性」です。彼は「唯一絶対の法則」は存在しないとし、「世界がこのようであること自体が偶然である」という「偶然の必然性(la nécessité du contingent)」を哲学的に肯定します。

* 「思弁的実在論」の哲学的特徴は、カント以降の認識論的制約(人間中心主義)を乗り越えようとする試みであり、科学的実在論(科学が語る世界を実在と認める)と結びつくことです。「思弁的」という言葉は、思考の限界を超えて「思考外の実在」を理性的に推測する態度を示します。

* メイヤスーの『有限性の後で』は私も少し読んで、オンラインで講義を受けたこともありますので、また機会があれば取り上げてみたいと思います。

【付録 現代思想の読み方】において千葉がドゥルーズやデリダを実際に読解していくやり方も、大変参考になるのですが、こちらはもう直接この本を買って(あるいは借りて)読んでいただければと思います。

【第七章】から先はだいぶ駆け足で済ませてしまいましたが、それは本書の内容がつまらないということではありません。【終わりに】において著者の千葉が本書の執筆動機を語っています。

「今の状態で、僕の現代思想理解はいわば「飽和」している。(中略)意図的に変えようとしなければ変わらないだろう理解がもう固まっていて、それは限界でもあり、それをどうするかを考えなければならないのですが、ともかくその理解を外部化する=書いてしまう必要がある、と思ったのです。」

「本書は、「こうでなければならない」という枠から外れていくエネルギーを自分に感じ、それゆえこの世界に孤独を感じている人たちに、それを芸術的に展開してみよう、と励ますために書かれたのでしょう。」

* 断言で終わらないところに、千葉さんのセンスを感じました。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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