NHK出版『哲学史入門Ⅳ』の2回目です。

【第1章 現代に生きる功利主義】

今回の回答者は「功利主義」の第一人者である児玉聡先生である。以前ミルの新書を自分のサイトでレビューした際に、私が呈した疑問に対して、先生自ら原文資料へのリンクを含めた丁寧なリプライをくださったことが印象に残っている。また京都大学の公開オンライン授業でも、私の質問に2つも答えてくださったとても素晴らしい方である。

まずは基本から復習してみる。
 ・功利主義は「全体の幸福」を目指す。
 ・J・S・ミルは「快楽には質の違いがある」としている。
 ・ミルは「「自由」は「最大多数の最大幸福」という功利原理の下位に位置づけられる」とも言っている。

そしてもう一つ重要なことが指摘されている。それは、功利主義の「帰結主義」は「予測される結果をもとに判断すること」であり、「結果オーライ」ではないということだ。

ここから、話はメタ倫理学的議論に踏み込んでいく。G.E.ムーアは、ミルやシジウィックの議論を継承しながらも、ベンサムやミルの議論を土台からひっくり返そうとした。

ムーアは「快と善はまったく異なる概念であり、混同してはならない」と言う。彼が『倫理学原理』で提示したこの考え方は、「自然主義的誤謬(Naturalistic Fallacy)」という概念で説明される。彼は、「みんなが喜ぶ(快)」という事実があったとしても、それが「正しい(善)」ことかどうかは、別の次元で直観的に捉える必要があると考えた。「事実(快)をそのまま価値(善)にすり替える論理の飛躍」を厳しく戒めたのだ。

ムーアは、功利主義が論理の土台としていた「定義」そのものを根底から崩し、「快楽の計算」を無効化した。さらにA・J・エアやC・L・スティーヴンソンは、「道徳的主張は真偽の判断を持たない」という「非認知主義」を主張し、功利主義どころか、規範倫理学自体に強い疑問が突きつけられることになる。

ここで功利主義を再構築しようとしたのが、R・M・ヘアである。(ムーアとかエアとかヘアとかややこしい。)
彼の「普遍的指令主義(Universal Prescriptivism)」は、倫理的な判断がどのような性質を持つべきかを分析したメタ倫理学の代表的な理論である。彼は、道徳的な言葉(「~すべきだ」など)は単なる感情の吐露でも事実の記述でもなく、「指令性」と「普遍化可能性」という2つの論理的特徴を併せ持つと考えた。

「指令性 (Prescriptivity)」とは、道徳的判断が行動を指図する性質のことである。例えば、「この椅子は赤い」という文は事実を述べているだけだが、「嘘をつくべきではない」という道徳的判断は、聞き手(あるいは自分)に対して「嘘をつくな」という命令(指令)を含んでいる。ヘアによれば、「私は〇〇すべきだ」という道徳判断に心から同意したならば、それを実行する(あるいは実行しようと意図する)はずだとされる。道徳は単なる知識ではなく、実践のためのものだからである。

「普遍化可能性 (Universalizability)」とは、ある状況で「〇〇すべきだ」と判断したなら、それと論理的に同様の状況にあるすべての人に対しても、同じ判断を適用しなければならないという性質である。「私はあなたからお金を盗んでもいいが、あなたが私から盗むのはいけない」という主張は、道徳的な言葉の使い方として論理的に誤っているとされる。特定の個人名(私、あなた)に依存せず、その状況にある「記述的な特徴(困窮している、約束をした、など)」に基づいて判断を下す必要があるのである。

興味深いことに、ヘアは「普遍的指令説」というメタ倫理学的な枠組みから、最終的に「選好功利主義(Preference Utilitarianism)」を導き出した。他者の立場に自分を置き換え、その人の欲求(選好)を自分のものとして等しく考慮しようとすると、論理的に「すべての関係者の選好を最大化する」という功利主義的な結論に至るというわけである。

ヘアは「二層理論 (Two-level Theory)」も提唱しているが、これは「道徳的な思考には2つの異なるレベルがある」という考え方である。「直観的レベル (Intuitive Level)」は、日常的な場面で使われる「嘘をついてはいけない」のような、シンプルで分かりやすい道徳規則のレベルであるのに対し、「批判的レベル (Critical Level)」は、直観的なルール同士が衝突したときなどに、哲学的・論理的に、何が本当に正しいかを徹底的に検討するレベルである。児玉先生によれば、ヘアの「普遍的指令説(メタ倫理学)」と「二層理論(規範倫理学)」は、論理的に一方が他方を直接的に含意する関係にはない。

ヘアを引き継いで、ピーター・シンガーが登場する。

シンガーに行く前に、デヴィッド・ヒューム(David Hume)の「限られた寛容(confined generosity)」という概念を復習しておこう。これは、「人間は完全に自己中心的なわけではないが、かといって見ず知らずの他人のために自分を犠牲にできるほど博愛的なわけでもない」ということである。ヒュームにとって、「正義」は人間の自然な感情から湧き出るものではなく、限られた寛容という欠点を補うために、経験と習慣を通じて編み出された「人工的な徳」なのである。

シンガーは、ヒュームのこの考えを完全に否定する。本書の表現を引用すると、「共感できないからといって、道徳的配慮の対象から外してよいのか」と問うのである。シンガーの倫理学における「不偏不党性(impartiality)」とは、道徳的な判断を下す際、自分自身の利益や特定の誰かの利益を、他者の利益よりも優先してはならないという原則である。これは「利益に対する平等の配慮(equal consideration of interests)」という彼の功利主義的な立場に基づいている。

このような考え方は「効果的利他主義」、マッカスキルの「長期主義」とも結びつくのであるが、いずれにせよ「共感よりも理性を優先する」立場である。しかし、そこに倫理的リスクが存在することも児玉先生は指摘している。

児玉先生は中立的な立場を保っておられるが、私はヒュームの考え方を圧倒的に支持する。あるいは序章で出てきたバーナード・ウィリアムズの考え方に共感を覚える。

最後に、シンガーやマッカスキルに影響を与えたデレク・パーフィットが登場する。パーフィットは「人格の同一性」を検討しつつ様々な思考実験を行い、「自分」と「他者」は実はあまり違わないのではないか、という議論を展開するのだが、パーフィットを簡単に済ませるわけにはいかないので、『理由と人格』と〈格闘〉してから、また取り上げたい。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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