NHK出版『哲学史入門Ⅳ』の3回目です。
【第2章 義務論から正義論へ】
今回の回答者は、ロールズ『正義論』の翻訳も手掛けておられる神島裕子先生である。 ロールズは以前ここでも扱ったので簡単に復習してから、ポスト・ロールズのうち、特にマーサ・ヌスバウムに焦点を当てて考察してみたい。
ロールズは「ソーシャル・ミニマムの保障」を主張したことで有名だが、神島先生は、「ロールズが影響力を持った理由のうちに、時代背景がある。」ことを指摘する。これは気が付かなかったが、言われてみればなるほど、と思わされた視点である。
ところで、カントはロールズの議論にどのように組み込まれたのであろうか。これに関して本書では、「普遍的理性にもとづく道徳の命令を、市民間の合理的合意によって正義の原理を導くという経験的な手続きに変換した」と述べられている。
ロールズはカントの哲学を「道徳哲学」から「政治哲学」へと翻訳する過程で、カントが持っていた「超越論的な厳格さ」を意図的に切り捨てたと言える。ロールズは功利主義に対抗し、個人の尊厳と権利を「合意」という客観的な手続きで守ろうとした点でカントを継承したと言えるが、一方、 動機が「純粋な義務」ではなく、計算可能な「合理性」に依存している点で、ロールズはカントから離反したと言える。
ここで、『正義論』における「正義の二原理」を復習しておこう。
第一原理「平等な自由の原理」
大事なのは後半の「「私の自由」は「他者の自由」と両立できるように調整されなければならない。」という点である。
第二原理
(a)「格差原理(世代内正義)」「貯蓄原理(世代間正義)」において「いちばん悪い状態にある人をできるだけマシにする」ということである。本書で重要なのは、「ロールズは完全な平等を目指していたわけではありません。」という指摘である。
(b)「公正な機会均等の原理」これは、ロールズが「社会制度の設計にあたって、出発点の不平等を是正する仕組みが必要だと考えた」ということである。
ここで「なぜ第一原理が先に来るのか?」ということが問われ、「ロールズが「「自由」や「自律」という価値を重視していたから」という解答が与えられる。
さて、この「正義の二原理」を導くための思考実験が「無知のヴェール」である。本書では、「「無知のヴェール」のもとで正義の原理を選ぶ行為じたいが、自由で平等な人格としての自己決定であり、そこにこそ正義の根拠がある」と、カントとの共通点が指摘される。
もう一つの方法論「反照的均衡(Reflective Equilibrium)」は、ロールズが正義の原理を正当化するために用いた、いわば「思考のチューニング」のプロセスである。
直観的な判断(熟慮された判断): 「奴隷制は不正だ」「宗教の自由は守られるべきだ」といった、私たちが確信を持っている具体的な正義感。
理論的な原理: 「無知のヴェール」などの手続きを経て導き出される、一般的・抽象的な正義の原則。
この2つの往復を繰り返し、自分の持つ具体的な判断と、採用した普遍的な原理がピタリと一致し、互いに支え合っている状態を「反照的均衡」と呼ぶ。
『正義論』を象徴する「善に対する正の優位(The Priority of Right over Good)」は、リベラリズムの核心をなす考え方で、「個人の人生観(善)よりも、社会のルール(正)が優先されるべきだ」という原則である。
ロールズは以下の2つを明確に区別した。
善(Good): 「どう生きるのが幸せか」という個人の価値観や目的のこと。
正(Right): 社会の基本的な枠組みや、権利・義務を定める公正なルールのこと。
多様な価値観を持つ人々が共生する社会では、「何が幸福か(善)」について全員が合意するのは不可能である。そこでロールズは以下のように考えた。社会のルール(正)は、特定の「善」を推進するために作られてはならない。自分の「善」を追求することは自由だが、それが他人の権利や社会の「正」の原理を侵す場合は、その「善」は制限される。
この原則によって、国家は特定の宗教や特定の生き方を国民に押し付けることができなくなる。ロールズが「正義の原理」を導き出す際に、特定の「善」の概念を排除した(無知のヴェールを用いた)のも、この優位性を守るためであった。
ここから、「ポスト・ロールズの正義論」の代表として、マーサ・ヌスバウムに焦点を当ててみる。
ヌスバウムはアマルティア・センと世界開発経済研究所で活動していたが、「単なるGNPの増大では人間のウェルビーイングは測れない」という問題を共有していた。そこから「人々がどのような生を実際に送ることができるのか」というケイパビリティという理論を提唱するようになる。
ところで、ability と capability はどちらも「能力」と訳されるが、その焦点が「現在の実行力」にあるのか、「潜在的な可能性」にあるのかという点で明確な違いがある。
ability は、学習や練習、あるいは天性によって備わっている「今、実際にできること」を指す。その焦点は、焦点: 実行レベル、スキル、実績である。
例:reading ability(読解力:今、文章を読んで理解する力)
capability は、ある条件が整えば達成可能な「潜在能力」や、組織・機械などが持つ「機能的限界(キャパシティ)」を指す。その焦点は、限界値、ポテンシャル、範囲である。
例:defense capability(防衛能力:事態が起きた際に対応できる潜在的な力)
ヌスバウムは「人間の尊厳を守るための普遍的基準を重視」し、「中心的ケイパビリティ」を10項目挙げてリスト化した。その際、彼女は「ロールズの「原初状態」に集まる人々の前提条件」を批判した。つまり、「ロールズの想定する『人間像』は、あまりに健康的で自立した成人男性に偏っており、障害者や高齢者、ケアを必要とする人々が切り捨てられている」という批判である。
本書では「ヌスバウムは「人間性の涵養」を理念としている点が特徴」であることが指摘される。要するに、ヌスバウムの思想は単なる「弱者救済の理論」ではなく、「人間がその持てるポテンシャルを十全に開花させるための教育的・政治的プロセス」であることが見えてくる。また、「彼女のアプローチでは、ケイパビリティはアリストテレスの「可能態(デュナミス)」という概念に、機能は「現実態(エネルゲイア)」という概念にそれぞれ相当します。」とも述べられる。
「可能態」とは、あるものが「今はまだ実現していないが、それを実現しうる内的な力を持っている状態」を指す。ヌスバウムの文脈で言えば、栄養を十分に摂れる、政治に参加できる、教育を受けられるといった「機会や選択肢が確保されている状態」である。
「現実態」とは、可能態として持っていた力が「実際に現れ、働いている状態」を指す。ヌスバウムの文脈では、確保されたケイパビリティを実際に行使して、健康を維持している、実際に選挙に行く、思索にふけるといった「具体的な生のあり方」を指す。
ヌスバウムやアマルティア・センは、「国家が人々に強制すべきなのは『機能』ではなく『ケイパビリティ』である」と考える。ヌスバウムの10のリストについて、本書では、「そこには自分の「善」のためだけでなく、他者の「善」を支えるためにもケイパビリティが必要だという視点」があると指摘されている。
この後、本章ではトマス・ポッゲの「グローバル正義」も取り上げられるが、残念ながらここでは割愛する。