NHK出版『哲学史入門Ⅳ』の4回目です。
【第3章 徳倫理学の復興】
今回のテーマは「徳倫理学」で、回答者はアリストテレスやフィリッパ・フットの翻訳を手がけておられる立花幸司先生である。「徳倫理学」とは、行為の結果や規則よりも、行為者の「人格・品性(徳)」を道徳の中心に置く倫理学の立場であるが、その歴史については、定説が定まっていない。
「徳倫理学」を現代に復興したと言われるのは、エリザベス・アンスコムである。彼女の「現代道徳哲学(Modern Moral Philosophy)」は、『現代倫理学基本論文集Ⅲ 規範倫理学篇②』(勁草書房)第3章に収録されている。この論文はしばしば「徳倫理学の祖」として単純化されるが、実際にはむしろ近代道徳概念(義務・義務論・法概念)の批判が主眼である。徳倫理学は「提案」というより「代替の方向性の示唆」に近い。
アンスコムが指摘したのは、近代の道徳哲学者が無意識に引きずっている「義務」や「法」としての道徳概念である。彼女は、この「立法者なき法」という不自然な概念を捨て、心理的な欲求や性格、そして人間の「開花(エウダイモニア)」に根ざしたアリストテレス的なアプローチに戻るべきだと主張した。
アンスコムがアリストテレスに立ち返ろうとしたのは、キリスト教の教条主義から訣別するためでもあった。確かにアリストテレスの徳(アレテー)とキリスト教的な美徳には決定的な断絶がある。アリストテレスにとって、徳は「卓越性」であり、弱さや無能を肯定する要素はない。これに対し、キリスト教はアリストテレスが「奴隷的」と見なしかねない謙卑を最上の徳に据えた。
しかし、アリストテレスを、そのまま復興させればいいと言うほど単純な話ではない。アリストテレスは「人間には生物学的な目的(テルロス)がある」という前提に立っていたが、現代科学の時代にその自然主義的な目的論をそのまま受け入れるのは困難である。また彼の倫理は、古代ギリシャのポリスという限定的なコミュニティに依存していた。現代の徳倫理は、価値観が多様化したグローバル社会において「何が善い性格か」を定義しなければならず、必然的にアリストテレスの枠組みを超えざるを得ない。
ここで『美徳なき時代(After Virtue)』のアラスデア・マッキンタイアの話が出てくる。彼は、近代の道徳的混乱は、アリストテレス的な「目的論(テロス)」を放棄したことに起因すると主張し、その解決策として共同体的な伝統への回帰を説いた。
マッキンタイアによれば、近代は「道徳的破綻の時代」である。現代の道徳用語(「善」「正義」「権利」)は、かつての文脈から切り離された断片に過ぎず、感情主義(エモティヴィズム)に陥っている。カントやミル、キルケゴールらによる「道徳の合理的正当化」の試みは、共通の人間的「目的(テロス)」を欠いているため、必然的に失敗した。マッキンタイアは、トマス・アクィナスに代表される「アリストテレス主義とキリスト教の総合」こそが、理性的で一貫した唯一の道徳的伝統であると考えた。マッキンタイアは、フィリッパ・フットら自然主義的倫理学者たちが「個別の徳」に注目したのに対し、より大きな「歴史の物語(ナラティブ)」の中で道徳を捉え直そうとしたのである。
さらに話は、ロザリンド・ハーストハウスの『徳倫理学について(On Virtue Ethics)』における「徳倫理学的正解(Virtue-ethical rightness)」に及ぶ。徳倫理学で問題となるのが、「何が「正しい行為」を決めるのか」である。ハーストハウスは、正しい行為を「有徳な人(virtuous agent)」を媒介にして定義した。「ある行為が正しいのは、もし有徳な人がその状況にいるなら行うであろう、その人柄にふさわしい行為である時、またその場合に限る。」と言うのである。
この定義には3つの重要なポイントがある。
まず、「ルール(義務論)」や「結果(功利主義)」ではなく、「有徳な人ならどうするか」という問いを正しさの基準に置いているという点である。次に、反事実的(Counterfactual)な設定も重要である。 実際にそこに有徳な人がいなくても、「もしその人だったら……」という想定によって、私たちは自分の行為を吟味できるとされるのである。さらに、人柄にふさわしい(Acting from character)ことも重視される。単に表面的な動作が一致するだけでなく、その人が持つ誠実さや勇気といった「安定した性格上の特性」から発せられる行為であることを指す。
この定義に対しては、「有徳な人が誰かわからなければ、正しさもわからないのではないか」という批判(循環論法)がよく投げかけられる。これに対し、ハーストハウスは以下のように補足する。
有徳な人とは、「徳(virtues)」を備えた人のことである。徳とは、人間が「エウダイモニア(真の幸福・繁栄)」に至るために必要な性格上の特性(誠実、親切、勇気、節制など)である。つまり、彼女の理論では「正しい行為」→「有徳な人」→「徳(誠実・勇気等)」→「人間としての繁栄」という連鎖構造になっており、最終的には「人間としての良き生とは何か」という哲学的人間観に基礎を置いているのである。
ハーストハウスは、道徳を「規則のチェックリスト」に落とし込むことを拒む。有徳な人は、その場の複雑な文脈を読み取る。例えば「嘘をつかない」というルールがあっても、有徳な人なら、人を不当に傷つけないための「配慮」や「知慮(フロネシス)」を働かせて行動を調整する。 私たちが道徳的なジレンマに直面したとき、抽象的なルールを思い出すよりも、「尊敬するあの先生ならどうするだろうか」「理想的な親ならどう振る舞うだろうか」と考える方が、より具体的で道徳的なモチベーションに直結するという考え方である。
立花先生によると、ハーストハウスの定式は「義務論や功利主義への批判として位置づけられる」。しかしそれでは抽象的でわかりにくいので、徳をリストアップすることになるが、そうすると「規則のチェックリスト」になり、矛盾が生じてしまう。この緊張関係が徳倫理学を形づくっている。
また「有徳な人はどうやってわかるか。」という問いに対しては、立花先生は冗談めかして「有徳な人ならわかる!」と語っているが、これでは何を言っているかわからない。結局、徳倫理学は「社会のなかで善いとされている徳」から出発するしかないのであるが、いかんせん歯切れが悪い。
本章では最後に、徳倫理学から見た「モラル・エンハンスメント」が話題になり、「徳とは単に得られた性質やそこで発揮されるパフォーマンスのことなのか。それとも、その性質をどうやって獲得したか、というプロセスも込みで徳と呼ぶのか」が問われるのであるが、ここでは詳細は割愛する。