今回は、「『加速主義 ニック・ランドと新反動主義』を読む」のスピンオフです。前回ピーター・ティールの紹介に際して、「欲望は他者の欲望である」という命題が登場しましたが、このフレーズを「定式」として有名にしたのはフランスの精神分析家であるジャック・ラカンです。さらにその思想的な「元祖」をたどるとヘーゲル、そしてその解釈者であるフランスの哲学者アレクサンドル・コジェーヴに行き着きます。

1930年代のパリで、アレクサンドル・コジェーヴが行ったヘーゲル講義が決定的な役割を果たしました。彼は「人間の欲望は、他者の欲望を欲望するものである(Le désir humain est le désir de l’autre)」と説きました。ラカンはこのコジェーヴの講義に出席しており、そこから強い影響を受けて自身の理論を構築しました。

この定式は、「自分が何を欲するかは、あらかじめ「他者(社会や言語秩序、あるいは特定の身近な他者)」によって決められている」という構造を指します。ラカンは「他者の欲望(le désir de l’Autre)」という表現を用い、主体が鏡像段階やエディプス・コンプレックスを通じて、いかに他者の眼差しや欲望を取り込んでいくかを説明しました。

一方、ピーター・ティールが傾倒したルネ・ジラールも「欲望は他者のものである」という趣旨のことを述べていますが、アプローチが異なります。ジラールは、人間はある対象を直接欲するのではなく、「モデル(仲介者)」がそれを欲しているのを見て、それを模倣して欲するのだと主張しました。

ヘーゲルの『精神現象学』「自己意識」の節(特に「主と奴」の文脈)を見てみましょう。ここで語られているのは、「自己意識は、別の自己意識においてのみ、かつ、それを通じてのみ充足される」あるいは「自己意識は、ある承認されたものである(承認を求めるものである)」という点です。ヘーゲルの関心は、「「私」という意識が成立するためには、単なる物(自然)を消費するだけでなく、自分と同じ「自由な意識」を持つ他者から「私」として認められる必要がある、という「承認(Anerkennung)」のプロセス」にあります。

コジェーヴは、人間を人間たらしめるのは、生物学的な生存への欲望(食べたい、寝たいなど)ではなく、「他者の欲望を対象とする欲望」であると定義しました。彼は、ヘーゲルの「承認」の概念を、「他者が価値を置いているものを、私も価値あるものとして欲する」あるいは「他者が私を価値あるものとして(欲望の対象として)認めることを欲する」という形で、より鮮明な「欲望」の理論へと読み替えました。

ところで、ラカンの原点とも言えるフロイトの精神分析学においては、「欲望は他者の欲望である」というような「主体の外部(他者)による欲望の規定」という発想は、少なくともラカンやコジェーヴが提示したような形では存在しませんでした。

フロイトとラカンの間には、欲望の「源泉」をどこに求めるかという点で決定的な違いがあります。フロイトにとっての欲望(正確には「欲動(Trieb)」)は、あくまでも個人の身体の内部から湧き上がる生物学的なエネルギーが基本です。一方、ラカンは「欲望は他者の欲望である」と述べた際、それを「フロイトへの回帰」と称しましたが、実際にはフロイトの生物学的な欲動論を、コジェーヴ経由のヘーゲル哲学で上書き(再解釈)したのです。

「欲望は他者の欲望である」という洞察は、古今東西の文学作品の中で驚くほど鮮やかに描き出されてきました。たとえばルネ・ジラールは、『欲望の現象学 ― ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実』の中で、偉大な小説家たちは「欲望の模倣性」をすでに見抜いていたと指摘しています。たとえば、セルバンテス『ドン・キホーテ』やスタンダール『赤と黒』などです。

文学作品では「他者の欲望」は主に以下の2つのパターンで現れます。1つ目は「嫉妬」としての欲望です。他者が持っているからこそ、それが輝いて見えるのです(プルースト『失われた時を求めて』など)。2つ目は、「スノビズム」です。自分の感性ではなく、「これが価値があると言われている(他者の評価)」からそれを欲するのです。

ラカンが数式や図式で示した「構造」を、文学は「情熱」や「苦悩」という肉体的な言葉で先に記述していたと言えます。「自分で選んでいるつもりで、実は誰かの影を追っている」という感覚は、優れた作家たちが好んで取り上げる、人間の根源的な「悲劇性」の一つなのかもしれません。

ここで重要なのは、ラカンやコジェーヴが「需要(Need)」と「欲望(Desire)」を厳密に区別している点です。「需要(Need/Besoin)」は生物的なものです。対象(ミルク、睡眠、空気)がはっきりしており、それが与えられれば満たされます。これは「他者」がいなくても身体が発するものです。欲望(Desire/Désir)は、「要求(Demande)」から「需要(Need/Besoin)」を差し引いた後に残る「余剰」です。

例えば、乳児が泣くとき、それは空腹(需要)を満たすためだけではなく、母親に「自分の方を向いてほしい」「愛してほしい」という承認を求めています。この「特定の対象(ミルク)では決して埋められない、他者との関係性における飢え」こそが、ラカンの言う「欲望」です。

コジェーヴの議論で言えば、人間が動物から「人間」になる決定的な瞬間は、「生物的欲求」を投げ打ってでも、「形のないもの(名誉や承認)」を欲した時だとされます。「眠いから寝る」のは動物的な事態ですが、「眠いのを堪えてでも、他者との対話に没頭する」とき、そこには生物学的要求を超えた「人間的な欲望」が立ち上がっている、という見方です。(ヘーゲルの「主と奴」の闘争において、死の恐怖に打ち勝って「名誉(承認)」を求めた者が主人になり、死を恐れて生物的生存を選んだ者が奴隷になる、という対比とパラレルになっています。)

人間は、他の動物のように「これを食べ、この時期に交尾し、こうやって巣を作る」といった、種を維持するための「完璧な本能(プログラム)」を失って生まれてくる動物である、というのが彼らの大前提です。ですから、ある意味「欲望は幻想に基づくしかない」のですが、これは虚無的な諦めというよりは、「人間は、自然界のプログラムから切断され、言葉と幻想の世界でしか生きられない特異な存在である」という人間存在の定義のようなものです。

ピーター・ティールの『ゼロ・トゥ・ワン』の中心的なメッセージの一つは、「競争は負け犬のすることだ」という逆説的な主張です。競争市場では企業同士が互いを模倣し合います。似た製品、似た戦略、似た人材を求めるのです。その結果、差別化が失われ、価格競争に陥り、全員が疲弊します。対象(利益・市場シェア)よりもライバルへの意識が肥大化し、本来の目的を見失う。これはジラールの「二重の媒介」そのものです。

ですから、ティールが目指すのは「競争を回避すること」、つまり「独占」です。誰も真似できないものを作れば、模倣的競合のゲームに入らずに済む。これはジラール理論の実践的応用と言えます。スケープゴートを生み出す暴力的な競合から降りる、という発想です。

ティールはスタンフォードのビジネス・法律エリートたちが互いを模倣し合って同じキャリアを目指す様子を、ジラール的競合の典型として批判しています。全員が同じ大手法律事務所、同じ投資銀行を目指す。それは自分の欲望ではなく、周囲が欲しがっているから欲しがっているに過ぎない、と。

ただし批判的に見ると、ティール自身が極めて競争的な人物であるという逆説があります。ペイパル、パランティア、トランプ支援など、彼の行動は「競争から降りた」というより「競争のルールを自分で書き換えようとしている」ように見えます。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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