「『加速主義 ニック・ランドと新反動主義』を読む」のスピンオフ、「人は他者の欲望を欲望する」の分析2回目です。このジャック・ラカンのテーゼは、私たちが何かを欲しがる時、その対象自体に価値があるからではなく、「他者がそれを価値あるものとして見ている」という構造を内面化していることを指しています。例えば、ブランド品が欲しいのは、そのバッグの機能性以上に「それを手に入れた自分を羨む他者の視線」を欲望している、といった構造です。

しかし、現実にはマジョリティが群がるものを避け、誰も見向きもしないものに惹かれる人々がいます。これはいったいどういうことなのでしょうか。この現象は、以下のいくつかの視点から整理できます。

フランスの社会学者ピエール・ブルデューが説いたように、好み(ディスタンクシオン)はしばしば他者との境界線として機能します。「みんなが好き」なものを欲しがるのは同質化の欲望ですが、「みんなが知らない」ものを欲しがるのは、「マジョリティとは違う自分」を確立したいという差異化の欲望です。この場合も、実は「マジョリティという他者」を強く意識しており、その裏返しとして反応しているという点では、依然として「他者の眼差し」の枠組みの中にあります。

ラカンのいう「他者」には、具体的な隣人だけでなく、社会のルールや流行、あるいは「世間」や「常識」といった、姿の見えない、しかし私たちを縛る「大きな他者」も含まれます。マジョリティは 社会が提示する「正解」を欲望しますが、マイノリティ志向の人は、社会の主流とは異なる、あるいは反抗的な文脈(サブカルチャー、専門的知、アヴァンギャルドなど)における「他者」の評価を基準にします。つまり、参照する「他者」のコミュニティをどこに置いているかの違いであり、構造自体は「他者の欲望を欲望している」状態と矛盾しません。

一方で、ラカンは「欲望」と「享楽(ジュイサンス)」を区別しました。欲望とは、常に他者を介し、満たされない欠如を埋めようとする運動であるのに対し、享楽とは、象徴的な秩序(言葉や社会通念によって作られた世界のルール)からはみ出した、個別の身体的な充足や固執を示します。あまりに風変わりな趣味や、他人の理解を全く拒むようなこだわりは、社会的な「欲望」のゲームから降りて、その人固有の「享楽」に没入している状態と言えるかもしれません。欲望は社会的ですが、享楽は孤独なのです。

全員がマジョリティを志向しないのは、人間が「単に生存に有利なものを求める動物」ではなく、「意味の世界で自分を位置づけようとする存在」だからではないでしょうか。他者が支持しないものをあえて選ぶ行為は、多くの場合、「マジョリティに埋没することへの恐怖」や、「特定の洗練された集団からの承認」を求めた結果であり、それもまた人間らしい「他者を介した欲望」の一形態と言えるのかもしれません。

この「他者を意識しつつ、他者よりも一歩上でありたいという願望」は、「承認欲求」と「優越願望」が複雑に絡み合った状態だと言えます。「みんなと同じ」であることは安心感を与えますが、同時に「自分はその他大勢の一人に過ぎない」という不安(個性の埋没)も生みます。そこで、あえて他者が支持しないものや、理解に時間がかかるものを選ぶことで、自分を特別な位置に置こうとする心理が働きます。

この心理構造には、いくつか興味深い側面があります。

1つ目は「「審美眼」によるマウンティング」です。マジョリティが追いかける流行を「浅薄なもの」として退け、少数派の価値を理解する自分を提示することは、「自分の感受性や知性は、大衆よりも洗練されている」というメタ・メッセージになります。対象そのものを愛しているのはもちろんですが、「それを愛せている自分」というセルフイメージを他者に(あるいは自分自身に対して)誇示したいという願望です。

2つ目は「希少性の所有」です。経済学的な価値だけでなく、精神的な価値においても「希少性」は強力です。マジョリティ志向の人は、「みんなが持っているから」価値がある(同調)と考えますが、マイノリティ志向の人は、「みんなが持っていないから」価値がある(差異化)と考えます。後者は、他者が手に入れていない価値を先取りすることで、精神的な「一歩上」に立とうとする動きです。

3つ目は、フロイトが提唱した「小さな差異のナショナリズム」という概念です。似たような者同士ほど、あえて微細な違いにこだわり、自分が相手より優れている、あるいは異なっていると主張したくなる心理です。哲学や芸術、趣味の世界で、非常にマニアックな領域で「一歩上」を目指すのは、この「微細な違いによる自己定義」の極致と言えるかもしれません。

「他者の欲望を欲望する」という言葉の逆説的な面白さは、「他者を否定したり、他者から離れようとしたりする行為そのものが、実は最も強く他者を意識している」という点にあります。

「一歩上でありたい」という願望は、比較対象としての「他者」がいなければ成立しません。その意味で、マジョリティに背を向ける人もまた、鏡の裏側からマジョリティという他者を見つめ続けていると言えるのではないでしょうか。こうした「差異化のゲーム」から真に自由になることは、人間にとって非常に難しい課題です。

では、なぜ私たちはそこまでして他者と自分を分け隔てようとするのでしょうか。その背景には、実は『自己』というものが、私たちが思うほど確固たるものではないという事実があります。精神分析などの視点に立てば、固定的な実体としての『自己』は一種の幻想、あるいは事後的に作られた構築物に過ぎません。

近代哲学や精神分析、さらには仏教的な視点から見ても、固定的な実体としての「自己」はしばしば幻想あるいは構築物であると見なされます。その不安定な「自己」を維持するために、私たちは絶え間ない「差異化」という防衛機制を必要としているのです。

この構造を3つの観点から掘り下げてみます。

  1. 否定による輪郭形成
    もし自己が内側に確固たる核(実体)を持たないのだとすれば、自己は「何者であるか」ではなく、「何者ではないか」という否定のプロセスによってしか定義できません。「私は大衆ではない」「私はあの人とは違う」「私はこの趣味を持っている(=持っていない人とは違う)」このように他者との間に境界線(差異)を引き続ける作業は、いわば砂の城が崩れないように外側から絶えず壁を補強し続ける作業に似ています。差異化を止めることは、境界線が消失し、自己が「他者」という海の中に溶け出して消滅してしまう恐怖を伴うのです。
  2. 「鏡像段階」と疎外
    ラカンの「鏡像段階」論を援用すれば、幼児は鏡に映る断片的なイメージを「自分」だと思い込むことで、バラバラな身体感覚に仮初めの統一感を与えます。しかし、そのイメージはあくまで自分の「外側」にある鏡像、つまり一種の「他者」です。自己の根本にこの「他者性」というズレを抱えている以上、自己を保つためには、その外側のイメージを常に他者と比較し、微調整し、優位性を確認し続けなければならない宿命を背負うことになります。
  3. 社会的アイデンティティの「ナラティブ」
    「自己」という一貫した物語を維持するためには、他者とは異なるエピソードや属性が必要です。全員が同じ欲望を持ち、同じ行動をとる世界では、物語は単一化し、個別の「私」を語る言葉が失われます。差異化とは、「私という物語」を書き続けるためのインクのようなものです。そのインクが切れたとき、私たちは「自分とは何者か」という問いに答えられなくなります。

もし「自己が幻想である」ことを完全に受け入れたなら、そもそも差異化して「自己」を保つ必要すらなくなるはずです。しかし、私たちが社会の中で生きる以上、完全に自己を消去して生きることは困難です。結局のところ、差異化のエネルギーを「他者より一歩上」という比較に向けるのか、それとも他者の評価とは無関係な「自分独自のこだわり(享楽)」という深化に向けるのかによって、その「自己」という幻想の質が変わってくるのではないでしょうか。「自己」を保つための差異化が、かえって「他者への執着」を強めてしまうという逆説は、人間という存在の逃れられないパラドックスと言えるかもしれません。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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