今回は、第二次トランプ政権をも動かす新反動主義の、誕生から今後の展望までを通覧する『加速主義 ニック・ランドと新反動主義』(木澤佐登志著、星海社 e-SHINSHO)の【2】をご紹介します。引用は「 」で示します。
【2 暗黒啓蒙】
まず、この章で登場する主要人物を簡単に紹介しておきます。
ピーター・ティール: 資金提供者・実践者(富豪・投資家)
カーティス・ヤーヴィン: 思想的支柱(「暗黒啓蒙」の提唱者、エンジニア)
ニック・ランド: 哲学的深化(「加速主義」の理論家)
ピーター・ティールの思想の根底には「リバタリアニズム」があります。リバタリアニズムは一言で言えば、「個人の自由を最大限尊重する立場」です。リベラルな左派と異なり、(人格的自由よりも)「経済的自由こそが、あらゆる自由の基盤である」と考えるところにその特徴があります。
ロバート・ノージックは、『アナーキー・国家・ユートピア』において、「リバタリアニズム思想の根底には「自己所有権」という概念がある。」とし、「最小国家を参加と脱退が可能な多元主義的なユートピアを可能にする共通の枠として提起しなおす」ことになります。ノージックの構想は、現代のブロックチェーン技術と結びつくことで、物理的な領土に縛られない『ビットネーション構想』へと技術的にアップデートされたと言えます。
* 復習しておきますと、「ビットネーション(Bitnation)」とは、ブロックチェーン技術を活用して、従来の「国家」が提供してきたサービス(身分証明、結婚、契約、紛争解決など)を、特定の政府に依存せず分散型で提供することを目指した「仮想国家」プロジェクトです。
ここからカーティス・ヤーヴィンの話になります。ヤーヴィンは、民主主義を非効率なシステムとして否定し、国家を株式会社のように運営すべきだと主張する「暗黒啓蒙主義(ネオ・リアクショナリー:NRx)」の理論的指導者です。ティールもまた、2009年のエッセイで「自由と民主主義はもはや両立しない」と述べており、シリコンバレーの技術至上主義的な観点から、ヤーヴィンの「民主主義の限界」という主張に強く共鳴しています。
ティールは、ヤーヴィンが創設したコンピューター・プラットフォームのプロジェクト「Urbit(Tlon社)」に対して、自身のベンチャーキャピタルを通じて初期投資を行いました。これは、単なるビジネス上の判断以上に、ヤーヴィンの「中央集権的なインターネットからの脱却」という思想への支持を象徴するものと見なされています。
両者は、既存の官僚機構(ヤーヴィンが「ザ・カテドラル」と呼ぶもの)を打破し、テクノロジーによって社会構造を根本から作り変えるというビジョンを共有しています。この思想的枠組みは、J.D.ヴァンスをはじめとする「新右翼(New Right)」の台頭にも影響を与えており、ティールがその政治的・資金的な橋渡し役を担っているという構図があります。
ヤーヴィンは「主権(sovereignty)」を「独立的に確保された所有権」と定義し、その上で「完全な自己所有権の達成を一種の独裁制に見出している」のです。(独裁制と言っても、ヒトラーのファシズムでさえも「堕落した形式」であると否定されます。)
彼は「フナルグル」という不死の宇宙人を「かつてないほど理想的な独裁者である」と仮定する思考実験を行います。彼は『利害関係や感情に左右される人間』が政治をやるからダメなのだと考え、アルゴリズムや絶対的に合理的な存在による『CEO的統治』を夢想しているのです。この思考実験は「新官房学」としてより洗練された形で体系化されていくことになります。
2012年の「暗黒啓蒙(The Dark Enlightenment)」においてニック・ランドは、ヤーヴィンの理論を哲学的に深化・拡張し、さらに「民主主義の外部へ向かう」というティールの姿勢を、資本主義が自己加速して人間性を超えていくプロセス(加速主義)として哲学的に肯定し、「暗黒啓蒙主義(NRx)」というパッケージとして言語化しました。ここでランドは、VoiceとExitという二項対立を持ち出しますが、本書では「VoiceとExitという二項対立は、ティールの言う「民主主義」と「自由」の二項対立を言い換えたものであることに気づくだろう」と指摘されます。「話し合い(Voice)で解決するのを諦めて、別の場所へ逃げ出すか新しく作る(Exit)ことこそが自由である」というニュアンスなので、「民主主義からのExit」へと繋がるわけです。
では「民主主義」からExitした後のビジョンは何でしょうか。それを明確に描いてみせたのが、ヤーヴィンの新官房学なのです。「ヤーヴィンに従えば、新官房学の下では、国家は企業のように運営されるべきであるとみなされる」のです。
ここで本書では少し気になる点が指摘されています。「ヤーヴィンにとってみれば、政府が安定していてかつ機能的であれば、政治的自由はさほど重要ではないのだ。」これは看過できないことですが、ともあれ、ヤーヴィンは、グローバルな民主主義的イデオロギーを「〈普遍主義〉という名の秘教的な権力の上に建造された大聖堂〈カテドラル〉の支配下にある」と否定するのです。
ここで本章は、ホイ・ユク(許煜)という中国出身の哲学者を引用し、新反動主義者に見られる「二律背反的な身振り」について詳述します。ホイ・ユクによれば「新反動主義者にとっての啓蒙思想は、まさに(ヘーゲルの言う)自己意識にとっての異物としての「他者」」なのです。彼が指摘する新反動主義の「二律背反(アンチノミー)的な身振り」は、現代のテクノロジーと政治思想が抱える非常に鋭い矛盾を突いています。この議論を理解するために、「なぜ高度なテクノロジーを推進する人々が、民主主義を捨てて古い君主制のような仕組みに戻ろうとするのか」という視点から、解説します。
通常、テクノロジーが進化すれば、社会も合理的で民主的な「啓蒙主義」の方向へ進むと考えられがちです。しかし、ピーター・ティールなどの新反動主義者は、以下の2つを同時に抱えています。
加速するテクノロジー: AIやバイオ技術など、最先端の知性を極限まで推し進める。
反近代的な政治: 民主主義は非効率だとして否定し、独裁的な統治や伝統的な階層秩序を肯定する。
この「未来に向かう技術」と「過去に戻る政治」が同居している不自然な姿勢を、ホイ・ユクは「二律背反的な身振り」と呼びました。
「啓蒙思想は、自己意識にとっての異物」とは、ヘーゲル的な表現で難しい部分ですが、2つに分解すると以下のようになります。
新反動主義者の「自己意識」ですが、彼らにとっての自分らしさ(アイデンティティ)は、自由な市場やテクノロジーによる「加速」そのものです。一方、異物としての「他者」の意味ですが、本来、啓蒙思想(自由、平等、人権、理性)は、現代社会の土台であるはずです。しかし、彼らにとってこれらの価値観は、自分たちの自由な加速を邪魔し、足を引っ張る「外部から押し付けられた不自由なルール」に見えています。つまり、彼らにとって啓蒙主義的な道徳や民主主義的な手続きは、自分たちのポテンシャルを縛る「よそよそしい、理解しがたい邪魔者(他者)」になってしまっている、という指摘です。
ヘーゲルの哲学では、自己意識は「他者」と出会い、それを乗り越えたり統合したりすることで成長します。しかし、ホイ・ユクによれば、新反動主義者はこの「他者(=啓蒙思想的な価値観)」を統合するのではなく、切り捨てようとしています。彼らは、自分たちの都合の良いテクノロジーの力だけを取り出し、それを守るために「伝統的な文化」や「閉鎖的なコミュニティ」という殻に閉じこもろうとします。これをホイ・ユクは、技術の普遍性と、地方的な特殊性を無理やり結びつける「再土着化(再断片化)」の動きとして警戒しています。
新反動主義(NRx)におけるキリスト教への態度は、まさにホイ・ユクが指摘する「二律背反」が鮮明に表れる領域の一つです。彼らの態度は、信仰というよりも、「装置としての宗教」と「世俗的な加速」の間の矛盾した結びつきとして理解できます。
新反動主義者の多くは、極めて冷徹で合理的な、いわば「超世俗的」なテクノロジー至上主義を持っています。その一方で、彼らは社会の安定のために、あえて「キリスト教的な伝統」や「権威」を高く評価します。個人の思考としては神を信じない徹底した無神論的・科学的合理性を持ちながら、政治的・社会的なツールとしては「キリスト教的価値観(秩序、階級、家族観)」を熱烈に支持するという、引き裂かれた態度をとります。
彼らにとって、近代民主主義やリベラリズムは「キリスト教から毒(平等主義)だけを抽出して世俗化した、出来損ないの宗教(メガ教会ならぬ『大聖堂』)」のように映っています。彼らは、リベラルな平等を止めるために、あえて「古い、厳しいキリスト教(カトリックの伝統主義など)」を召喚しようとします。ここでのキリスト教は、人々の魂を救うものではなく、社会がバラバラに崩壊するのを防ぐ「重石」や、加速する技術をコントロールする「統治の技術」として利用されている側面があります。
一方で、彼らが推進するテクノロジー(AIや不老不死)は、キリスト教がかつて担っていた「超越的な救済」のポジションを奪おうとしています。「人間を超えた知性(AI)」を造り出そうとする試みは、キリスト教的には「高慢(ヒュブリス)」にあたります。しかし彼らは、そのAIを「新たな神」のように崇めつつ、同時に古い宗教的なシンボルを社会の規律として維持しようとします。
本書の記述に戻ります。「ランド&ヤーヴィンによれば、(イギリスの進化生物学者かつ科学啓蒙家)リチャード・ドーキンスこそが〈カテドラル〉を代表するイデオローグということになる。」これはいったい何を意味しているのでしょうか。
ランドらに言わせれば、ドーキンスは「神」は否定したものの、「人間はみな平等である」というキリスト教由来の道徳(世俗的人文主義)を盲信しているという点において、結局は「大聖堂」の一員である、という理屈です。ヤーヴィンらは「プロテスタント的伝統が薄まって、お花畑的なリベラリズム(大聖堂)になった」と批判しています。
しかしドーキンスの「平等性」を退けて「人間の生物学的多様性」を持ち出すことは、レイシズムの正当化へと繋がります。つまり、能力の差を遺伝的・生物学的な差として肯定し、それを統治の根拠にする危険な側面があるのです。
本書によれば、「暗黒啓蒙」の最終章ではヤーヴィンの思想の紹介ではなく、ランドのオリジナルの思想が展開されています。すなわち「ゲノム編集による遺伝子改変」についてです。これは「加速主義」に近い考え方ですが、これは改めて次章のテーマとなります。