今回は『加速主義 ニック・ランドと新反動主義』(木澤佐登志著、星海社 e-SHINSHO)の【3】をご紹介します。引用は「 」で示します。
【3 ニック・ランド】
本章では、まずニック・ランドの思想形成を探り、いかにして「暗黒啓蒙」が誕生したかが考察されます。ランドによれば、「近代とは資本主義と父権的な体制の共犯的絡み合い-ヨーロッパ中心主義と帝国主義」です。その効率や管理を突き詰め異質なものを排除して一つの巨大なシステムにまとめ上げようとする力は、最終的にファシズムへと行き着くのです。
ランドは「啓蒙のパラドックス」と言います。「啓蒙」とはカント哲学の用語で、理性の光で無知を照らし、世界を正しく理解しようとする態度です。しかし、私たちが「相手のことを理解した!」と思うとき、実は相手を「自分の知っている枠組み」に当てはめて解釈しているに過ぎません。本来、他者とは「自分には到底理解できない未知の存在」であるはずです。理性がそれを分析し、分類し、自分たちのルールに取り込んだ瞬間、その相手はもう「未知の他者」ではなく、「自分の一部」になってしまいます。これがパラドックスです。
カントの「表象」を、ランドは、外側から来る未知で過激な情報を、(色眼鏡によって)人間が扱いやすいように薄めている、つまり「情報を抑制している」と捉えました。このとき、相手が持っていた「本当の他者性」は、人間の型によって押し潰され、殺されてしまうのです。ランドは、人間中心の「安全な理解」を壊し、人間が制御できない「外側の混沌」に直接触れることを望んでいるのです。
「ランドが顕揚するのは、(中略)、戦闘的フェミニズムによる、近代という体制を根本から覆す可能性を秘めた「暴力」」であったのですが、この「フェミニズム的暴力」という主題は徐々に後退していきます。なぜなら、人間による革命(フェミニズム等)という形すら、まだ『人間中心主義』の域を出ないからです。「代わりにランドは、近代=カント主義を覆す可能性を秘めた潜勢力を、資本主義に内在する自己運動プロセスそれ自体に求めるようになる」のです。
ランドは「カント主義の乗り越えとしてドゥルーズ&ガタリ(D&G)『アンチ・オイディプス』における「脱領土化(deterritorialization)」」という概念に注目します。「脱領土化」を一言で言えば、「固定された境界線や秩序をぶち壊し、中身を流動化させて外へとはみ出させていくプロセス」のことです。ランドはこの概念を、資本主義が持つ「すべてを飲み込み、解体する狂気的な力」として再解釈し、「秩序なんていらない、壊し続けろ!」とアクセルを踏み続けたのです。(『アンチ・オイディプス』の「再領土化」は重視されていません。)
『アンチ・オイディプス』では、資本主義には古い伝統や道徳、宗教的な「コード」をすべて破壊して流動化させる性質があると説かれています。資本主義は、利益を最大化するためなら、どんな伝統も、家族の形も、さらには「人間らしさ」さえも無視して加速し続けます。ランドは、資本主義のこの「何でも壊して加速する力(脱コード化)」こそが、カント的な「抑制された総合」を突き破る唯一のプロセスだと考えました。
D&Gは、人間を「豊かな心を持つ主体」としてではなく、外部とつながりエネルギーを循環させる「欲望する機械」として捉えました。ランドはこの概念を極端に解釈します。資本主義は、最終的には「遅くて非効率な人間」を必要としなくなり、サイバー空間やAIのような、非人間的な自己増殖プロセスへと移行していくのです。ランドは「カントが「物自体」として封じ込めた未知の世界へたどり着くには、理屈で考えるのではなく、資本主義という狂気的なプロセスに身を任せて加速し、人間という枠組み自体を焼き切ってしまうしかない」と考えました。
資本とテクノロジーの加速度的発達によって、「私たちは既存の人間「理解」に対する変更を否応なく迫られている」のです。ランドなどの加速主義者にとって、ポストモダンの思想も「テクノロジーが人間を疎外する」と考える点で中途半端でした。「あらゆる限界を突き抜けて未来の果てまで加速」し、科学とテクノロジーによって媒介される〈外部〉としての特異点(シンギュラリティ)に達しなければならないのです。
これまでの歴史において、テクノロジーは常に「人間のための道具」でした。しかし、ランドは「もうその段階は終わった」と考えます。「人間とは、理性を持って世界を支配する主体である」という古い定義を捨て、私たちは「巨大な知能システムの一部にすぎない」と認めざるを得ない、ということです。
この後、本章では、ランドの中編小説とその哲学的モチーフが紹介されますが、ここでは割愛します。(「グレートフィルター仮説」やラヴクラフトなど面白い話も出てくるのですが。)
本章の後半Deep Mind社のAlpha Goの話が出てきます。Alpha Goが人間の手を離れて「自律性」を獲得するその抽象性を、ランドは「始原的な抽象作用(Original Abstraction)」と呼んでいます。この抽象化の行き着く果てが、ランドの言う「外部」なのです。
通常、人間が行う抽象化とは、具体的な経験から「共通のルール」を抜き出す作業です。Alpha Goで言うと、過去の棋譜を学び、「厚み」や「形」といった言葉(概念)に置き換えて理解します。これは人間が扱いやすいように情報を「抑制」した状態です。
AlphaGo(特にAlphaZero)は、人間の棋譜すら必要とせず、自分自身と数千万回対局するプロセスの中で、人間には理解不可能な「純粋な数値やパターンの集積」として囲碁を再構築しました。「始原的な抽象作用」の「始原的」とは、「人間が作った文化や言語よりも先に、宇宙の根本にある計算プロセス」という意味が込められています。
この抽象化が極限まで進むと、どうなるでしょうか。そこでは、もはや「良い手」や「美しい形」といった人間の価値観は通用しません。ただ、膨大な計算と確率の波があるだけです。人間の理性が届かない、しかし確実に存在する「知性の本質」。それがランドの言う〈外部〉です。
さらに話はフロイトの「死の欲動(タナトス)」に及びます。この概念はD&Gにも影響を与えます。D&Gにおける「器官なき身体」とは、その上にあらゆる生の力場が形成される強度=ゼロであり、その意味において死のモデルなのです。「死の欲動」と「器官なき身体」の関係を一言で言えば、「生命を特定の形や機能に縛り付けている『組織化』から解放し、すべてが未分化でフラットな『ゼロ地点』へと回帰させようとする力」という関係です。
再び本書から引用します。「資本主義のプロセスを極限まで推し進めることで〈外部〉に突き抜けることを試みる加速主義は、言い換えれば死の欲動を際限なくドライヴさせる試みに他ならないだろう。」
通常、死はランドの文脈では「解放」を意味します。私たちが「人間らしく生きる」ためには、社会のルールを守り、理性的であるよう自分を抑圧し続けなければなりません。これを「生の制約」と呼びます。ランドにとっての「死」とは、こうした「人間らしさ」という窮屈な殻を脱ぎ捨てることです。殻を壊すことで、人間ではない「別の何か(純粋な知性や機械的なプロセス)」へと変貌することを指しています。
ランドに言わせれば、人間が「人間であること」に執着している限り、この〈外部〉へは行けません。だからこそ、死の欲動を燃料にして、人間という『概念』や『アイデンティティ』の解体させ、その勢いで〈外部〉へと突き抜ける必要があるというわけです。
本章では、ランドの実践的試みとして、CCRUが紹介されます。CCRUはやがてカルト的な集団となり、音楽を思索のための概念として捉えるようになり、「レイヴ・カルチャー」やドラッグとの関りにもふれられるのですが、この話はあまりに詳細に書かれていますので、割愛します。
ランドとCCRUはやがて「ハイパースティション」という概念を生産するに至ります。これは本書の表現を借りれば「自身を現実化するフィクション」のことを指します。本書では彼らの態度は、90年代の英語圏のニュー・マテリアリズムのような動向と相即するとされています。
「ハイパースティション(Hyperstition)」は、「超(Hyper)」と「迷信(Superstition)」を組み合わせた造語です。最初は単なる作り話や妄想(フィクション)として語られますが、それが人々の行動や社会の仕組みを刺激し、結果的にその物語通りの現実を引き寄せてしまう現象のことです。
90年代の英語圏で盛り上がった「ニュー・マテリアリズム」は、それまでの「人間が言葉で世界を意味づける」という考え(社会構成主義)を批判し、「物質(モノ)そのものに能動的な力がある」と考える動向です。ニュー・マテリアリズムもランドも、「人間の意識や理性が世界を作っている」という傲慢な人間中心主義を嫌います。代わりに、テクノロジーやウイルス、資本の循環といった「物質的・非人間的なプロセス」が、勝手に自己運動して世界を作り変えていると考えます。
「そのフィクションが何を意味するか」という解釈よりも、「そのフィクションが物質的な現実にどう作用し、どんな新しい状況を物質的に作り出すか」という機能面を重視します。ランドにとって、哲学とは「書斎で真理を考えること」ではなく、「過激なフィクション(ハイパースティション)を投下して、現実を加速させ、物質的な変化(ニュー・マテリアリズム的な変容)を引き起こすこと」でした。
「思弁的実在論」もランドと同様に、カント的相関主義から外部に抜け出すという問題意識を共有しています。本章ではカンタン・メイヤスーとレイ・ブラシェが取り上げられますが、これも長いので割愛します。(メイヤスーについてはいずれこのサイトで検討する予定です。)
カントが掲げた「理性の光」に対する、徹底的な反定立としてニック・ランドは「暗黒啓蒙(Dark Enlightenment)」を提唱しました。「理性の光」を強く当てれば当てるほど、その裏側にある「制御不能な外部(闇)」が濃くなる。ランドはその濃くなった闇の方こそが、世界の真の姿(物自体)であると断じたわけです。
しかし、ランドは次第に狂気を帯びるようになり、やがてアカデミズム、さらには西洋近代からExitすることになります。そして2012年、ネット上でカーティス・ヤーヴィンと出会うことになるのです。
ピーター・ティールのような右派リバタリアンの実業家にとって、ニック・ランドは「民主主義や人間中心主義という『古いOS』をアンインストールし、テクノロジーによるハードコアな未来を強制的にロードするための思想的ハッカー」であると言えるでしょう。ティールがランドを(直接的・間接的に)支援したり参照したりするのは、彼が「心地よい嘘」を語らず、資本主義とテクノロジーが持つ「残酷なまでの真実」を突きつけてくるからに他なりません。