1950年代末から60年代にかけて世界の文学・映画に決定的な衝撃を与えた「ヌーヴォー・ロマン」だが、最近はあまり耳にしない。運動としては1970年代半ばを境に急速に収束していったのである。

しかし、それは「失敗して消えた」のではなく、むしろ逆である。彼らが提示した革新的な手法が現代文学の「当たり前の前提」として深く溶け込み、世界中の作家たちに受け継がれていったというのが、その後のリアルな歴史である。

1970年代初頭、ヌーヴォー・ロマンは学術界や批評家から熱狂的に支持され、一種の「メインストリーム」になった。1971年にはセリジー=ラ=サールで大規模な国際シンポジウムが開かれ、理論的指導者だったジャン・リカルドゥーらによって極限まで理論化が進むことになる。しかし、皮肉にも、これが運動の寿命を縮めることになる。「物語を書いてはならない」「現実を模倣してはならない」といったルールが教条主義化し、文学としての自由な息吹が失われ、読者にとっては極めて難解で退屈な「言語ゲーム」のようになってしまった。もともと「たまたま同じ出版社(ミニュイ社)から本を出していた個性の異なる集団」に過ぎなかったため、窮屈な理論化に嫌気がさした作家たちは、次々とこの枠組みから離れていった。

主要作家たちは、70年代以降、それぞれ全く異なる独自の境地へと向かった。面白いのは、多くの作家が「封印していたはずの『私(主観)』や『物語』を別の形で復活させた」点である。

マルグリット・デュラスは、もともと運動の中心にいたわけではないが、80年代に大爆発する。1984年に発表した自伝的小説『愛人(ラマン)』は、かつての記憶の断片化の手法を使いつつも、極めて官能的でエモーショナルな「私」の物語へと回帰し、世界的なベストセラーとなった。(私も大昔読みましたが、面白かったです。)

アラン・ロブ=グリエは、「人間性を排除した客観描写」を謳っていいたが、80年代以降は『鏡の再来』(1984年)に始まる『ロマノスク(小説的)』自伝的三部作を発表する。自分自身の子供時代の記憶や、幻想、性的な妄想をモザイク状に組み合わせた「虚実皮膜の自伝(オートフィクション)」へと舵を切ったのである。

アラン・レネの映画化はないが、クロード・シモンは、記憶と歴史の断片を、意識の流れのままに巨大なタペストリーのように織り上げる独特の文体を極め続け、1985年にノーベル文学賞を受賞する。これがヌーヴォー・ロマンという運動に対する、世界文学からの最大の評価の到達点となった。

運動としての「ヌーヴォー・ロマン」という看板は下ろされたが、彼らが破壊した「19世紀的な古い小説の枠組み」は二度と元には戻らなかった。彼らの遺産(手法)」と「 現代文学における顕在化」は以下のようになる。
・信頼できない語り手: 語り手の記憶があやふやだったり、嘘をついたりする設定の一般化(例:カズオ・イシグロ)
・オートフィクション: 虚構(フィクション)と自伝(エッセイ)の境界を曖昧にするアプローチ
・時間の非線形性 過去・現在・未来をシャッフルし、映画のフラッシュバックのように構成する手法

日本文学においても、大江健三郎や安部公房、さらには村上春樹にいたるまで、時間の不確かさや記憶の迷宮を扱うアプローチの底流には、確実にヌーヴォー・ロマンが耕した土壌がある。

では、ソレルスやル・クレジオはまた違う流れなのであろうか?(いきなりソレルスやル・クレジオ出して恐縮ですが、私は仏文出身で50年前の復習をしているのです笑)

フィリップ・ソレルスや、J・M・G・ル・クレジオの登場は、ヌーヴォー・ロマンの「次」あるいは「外」に現れた、全く異なる大きな文学の潮流を代表している。彼らが登場した1960年代は、文学だけでなく思想界(構造主義やポスト構造主義)が激変した時代であった。ソレルスとル・クレジオは、それぞれ全く異なるアプローチで、ヌーヴォー・ロマンとは違う地平を切り拓いていった。

ソレルス(1936–2023)は、ヌーヴォー・ロマンの作家たちより少し若い世代である。彼は1960年に前衛文学・思想雑誌『テル・ケル(Tel Quel)』を創刊し、その中心人物としてフランス思想界の流行を作った。ロブ=グリエたちのヌーヴォー・ロマンが、あくまで「小説の形式や知覚(記憶)」の変革を目指したのに対し、ソレルスらの『テル・ケル』派は、「言語そのものの解体」と「政治(マルクス主義や毛沢東主義)」「精神分析(ラカン)」を過激に結びつけた。

彼らにとって文学とは、物語や人間を描くものではなく、「文字(エクリチュール)の戯れ」そのものであった。ソレルスの当時の作品(『ドラマ』『数』など)は、句読点すら排除されたり、数学的な構造で書かれたりして、ヌーヴォー・ロマン以上に難解な「読むことが不可能なテキスト」へと突き進んだのである。しかし、80年代に入ると、ソレルスもこの過激な前衛路線をあっさり捨て、1983年の『女たち』からは、一転して非常に饒舌でスキャンダラス、かつ古典的な文体で現代社会をユーモラスに風刺する小説へと「大転向」し、文壇の寵児であり続けた。

ル・クレジオ(1940– )の登場は、当時のフランス文壇にとって巨大な衝撃であった。1963年、弱冠23歳で発表したデビュー作『調書』はルノードー賞を受賞し、「ヌーヴォー・ロマンの恐るべき子供(enfants terribles)」と目された。確かに初期のル・クレジオは、都会のノイズや記号に押しつぶされる人間の意識を断片的に描き、ヌーヴォー・ロマンに近い問題意識を持っていた。しかし、彼はすぐにその枠組みを飛び越えていく。

ロブ=グリエたちの文学が、どこか「ヨーロッパの都会の、インテリの言語の迷宮」に閉じこもりがちだったのに対し、ル・クレジオはそこから「身体的な感覚」や「西洋文明の外側」へと強烈に脱出を図った。1966年の『大洪水』や1970年の『物質的恍惚』を経て、彼はメキシコやパナマのインディアン(先住民)と暮らすようになり、文明に汚される前の「太陽、海、大地、神話の世界」へと回帰していく。言葉のパズルではなく、人間が生きる根源的な喜びや痛みを、息をのむほど美しい詩的な文体で描くようになる。

アラン・レネの映画が持っていた「緻密な知の構築」から見ると、ソレルスはより知的(思想的)に尖り、ル・クレジオはより感性的(野生の思考)に広がっていった、異なる豊かな川の流れだったのである。

アラン・レネはヌーヴェル・ヴァーグにおいて極めて特異な位置にいた。それゆえ、レネに直系の「これぞ後継者」という弟子のような存在はいない。彼のスタイルがあまりにも知的かつ高難度で、他の誰も真似できない孤高のシステムだったからでもある。しかし、レネが発明した「記憶と時間のモザイク構造」という遺伝子は、世界中のシネアストたちに決定的な影響を与え、変奏されながら受け継がれている。

一般的に「ヌーヴェル・ヴァーグ」と聞いて思い浮かべるのは、ゴダールやトリュフォーといった「カイエ・デュ・シネマ」誌の映画批評家出身のグループ(右岸派)である。彼らはシネマテーク(映画館)に通い詰め、ハリウッド映画などの大衆映画を愛し、「手持ちカメラ」や「即興演出」で街頭に飛び出し、若者のリアルな生態を軽快に撮った。

それに対して、レネは「左岸派(リヴ・ゴーシュ)」と呼ばれるグループに属する。レネはシネフィルというより、文学、絵画、演劇、現代音楽の芸術家たちと深く交流していた。即興を好んだゴダールたちとは真逆で、レネは撮影前にミリ単位で構図を決め、楽譜のように緻密な絵コンテを組み上げた。彼はもともと天才的な「編集技師」であり、映像のモンタージュによって、人間の脳内の再現を試みる冷徹な構築の人であった。

直接の門下生はいないが、レネの「記憶の迷宮」「時間のシャッフル」「ドキュメンタリーと虚構の境界の曖昧さ」を別の形で開花させた現代の映画作家たちとしては、たとえば、時間と記憶の迷宮の継承者としてはクリストファー・ノーランを、映画によるモダン・アートの継承者としてはピーター・グリーナウェイを、「信頼できない記憶」のメロドラマ作者としてはトッド・ヘインズを、アジアにおけるレネ的な「記憶の揺らぎ」を表現する者としてはホン・サンスを挙げることができる。

ゴダールやトリュフォーたちが「これぞシネマの固有の表現だ」とカメラを回したのに対し、レネのアプローチは常に「映画の外側にある芸術」を映画の中に持ち込むことにあった。彼は映画を避けていたというよりも、むしろ「他の芸術を映画という濾過器に通すことで、映画にしかできない極限の表現(=真の映画的なもの)を発明しようとしていた」という、逆説的な野心を持っていたのではないかと考えられる。

初期のレネは、文学を映画の「モンタージュ」で解体したと言える。初期の『ヒロシマ、わが愛』や『去年マリエンバートで』では、デュラスやロブ=グリエの非常に強固な「文学の言葉」が前景化している。一見、文学の奴隷になっているようにも見えるが、レネの企みは逆であった。

文学は「言葉」で時間を操るが、映画は「カット」で時間を操る。レネは、彼らの前衛的なテキストを、映画の「トラヴェリング(移動撮影)」と「冷徹な編集」という、極めて映画固有の手法によって視覚化した。文字で読めば難解なヌーヴォー・ロマンの構造を、映像の快感や恐怖(脳内のフラッシュバック)へと変換してみせたのである。これは文学の映画化ではなく、「文学を触媒にして、映画の『時間編集能力』の限界を試す」という行為であった。

後年のレネは、演劇を映画の「嘘(カメラ)」で拡張したと言える。1980年代以降のレネは、『メロ』や『巴里の恋愛協奏曲』、遺作となった『愛して飲んで歌って』にいたるまで、露骨なほど「演劇的(あるいはミュージカル的)」な世界へ傾倒する。セットはわざとらしく人工的で、背景に書き割りの絵が使われるなど、映画が本来得意とする「現実世界のリアリズム」を完全に放棄している。

しかし、ここにあるのは「演劇という『嘘の空間』を、映画の『カメラ』で切り取ったらどうなるか」という実験である。実際の舞台であれば、観客は常に同じ席から全体を見つめるが、映画のカメラは役者の表情にクローズアップし、舞台の境界線を自在に飛び越える。レネは、演劇という人工的な虚構をあえて囲い込むことで、「映画とは、現実を写すものではなく、精巧に作られた虚構をコントロールする芸術である」という映画の本質を逆説的に証明しようとしたのである。レネが避けていた「映画的なもの」とは、おそらく当時のハリウッドや伝統的映画が信奉していた「観客を自然に物語に没入させるための、透明な映画文法」のことだったのだと思われる。

レネにとって、映画とは「それ単体で完結した純粋な芸術」ではなく、あらゆる芸術を飲み込んで再構築できる「最高の特権的なメディア」だったのではないだろうか。あえて「映画らしさ」から遠ざかることで、逆に「カメラと編集という映画の武器を使わなければ、絶対に表現できない人間の意識の深層」を浮かび上がらせる。そう考えると、レネの「徹底した映画的回避」の姿勢こそが、結果として彼をヌーヴェル・ヴァーグの中でも最も過激で、最も「映画の可能性を信じた」特異な映画作家たらしめていた、と言えるのかもしれない。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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