最後のジャズの巨人とも言えるソニー・ロリンズが95歳で亡くなりました。マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーンらと共にモダン・ジャズの黄金期を築き、文字通り「最後の巨人(サキソフォン・コロッサス)」として存在し続けていた彼が亡くなったことは、ビバップからハード・バップへと至るあの奇跡のような歴史の生き証人を失ったことを意味します。彼が残した即興演奏のダイナミズムと、どこかユーモラスでありながらも圧倒的な推進力を持つ音色は、これからも色あせることはありません。
「創造的な人間が終わるとき、その人は次の存在へと続いていくのだと思う」
—— ソニー・ロリンズ(生前の言葉より)
ソニー・ロリンズは、マイルスのように絶えず音楽のジャンルそのものを破壊しては再構築し続けた「変革のドラマ」や、コルトレーンのように自らを極限まで追い詰め、神聖な領域へと殉職していったような「求道的な悲劇性」に比べると、生涯にはケレン味のある派手なドラマは少ないかもしれません。その意味で、まさに「純粋に音楽そのものと対峙し続けた人」と言えます。しかし、ロリンズにもまた、彼ならではの極めて内省的で、求道的なエピソードが存在します。その最たるものが、キャリアの絶頂期に敢えて行った「2度の失踪(引退)」です。
特に有名なのが、1959年から1961年にかけての最初の失踪です。当時、彼はすでにサックスの第一人者として名声を確立していましたが、自身の演奏に満足できず、突然表舞台から姿を消しました。彼が練習場所に選んだのは、ニューヨークのウィリアムズバーグ橋の歩道でした。アパートの住人に迷惑をかけないため、そして行き交う列車の爆音や川風に負けない逞しいトーンを鍛え上げるために、彼は夜な夜な一人で橋の上に立ち、冷たい風に吹かれながらサックスを吹き続けました。この隠遁生活を経て録音されたアルバムには、まさに『The Bridge(橋)』という名が付けられています。
さらに1960年代後半にも再びシーンから姿を消し、インドへ渡ってヨガや瞑想、東洋哲学を学びました。これは名声や音楽ビジネスの喧騒から距離を置き、自らの精神を浄化するための選択でした。
マイルスやコルトレーンのドラマが「歴史の転換点」や「思想の深化」と結びついて語られるのに対し、ロリンズのドラマは「今日の自分の演奏は、昨日の自分を超えているか」という、極めて個人的かつ即興演奏家としての純粋なプライドに終始していました。彼にとっては、スタジオできれいにまとまった録音を残すことさえ二次的なものであり、ライブのその瞬間、インスピレーションが湧き上がってくる瞬間にしか本当の価値を見出していませんでした。だからこそ、レコードよりもライブで本領を発揮する「現場の音楽家」であり続けました。
劇的なカリスマ性で時代を牽引したマイルスらとは異なり、ロリンズはただひたすらに楽器と向き合い、音の可能性を掘り下げ続けた「職人的でありながら破格の天才」だったと言えます。その実直で純粋な姿勢こそが、彼を「最後の巨人」たらしめた理由なのかもしれません。
かつて、テナーサックスの世界を「ロリンズ派(Rollins-ite)」と「コルトレーン派(Trane-ite)」の二大潮流に分ける見方がありました。それぞれの派閥の特徴を比較すると、彼らが後進に与えた影響の違いがくっきりと見えてきます。
ロリンズ派のアプローチは、「歌心」「リズムの遊び」「モチーフの展開」に重きを置きます。その音楽的特徴は、どっしりとした太く逞しいトーンで、メロディをユーモラスに変形させながら展開しくところにあります。リズムに対して自在に突っ込んだり遅らせたりする「タイム感覚」の良さがあり、聴き手を飽きさせないエンターテインメント性と知的な構成力が同居しています。影響を受けた奏者としては、クリフ・ジョーダン、ジョニー・グリフィン、ジョー・ヘンダーソンなどがいます。ロリンズ派は、いわば「伝統的なジャズの語法(ビバップ/ハードバップ)を極限まで洗練させ、即興演奏の愉楽を追求する」スタイルと言えます。
一方のコルトレーン派は、「コードの分解」「音の敷き詰め(シーツ・オブ・サウンド)」「精神性の表出」を特徴とします。そのサックスのトーンは硬質で、時に悲鳴のようにも聴こえるストレートなものです。ロリンズがメロディで遊ぶのに対し、コルトレーンはコード(和音)の構造を極限まで細分化し、音を敷き詰めるようにシリアスに吹き込みました。モード・ジャズやフリー・ジャズへと向かう、強烈な上昇志向と切迫感が特徴です。影響を受けた奏者としては、ウェイン・ショーター、ファラオ・サンダース、マイケル・ブレッカーなどがいます。コルトレーン派は、「既存のジャズの枠組みを突破し、未知の音響や精神世界を切り拓く」スタイルであり、1960年代以降のモダン・ジャズの主流(メインストリーム)は急速にこのコルトレーン派一色に染まっていくことになります。
この二派の対立軸は、そのまま「肉体的なダイナミズム(ロリンズ)」対「精神的な求道(コルトレーン)」の構図でもありました。面白いのは、1956年にアルバム『Tenor Madness』の表題曲で唯一の共演を果たした際、当時はまだロリンズの方が圧倒的な格上と見なされていた点です。しかし、60年代に入るとコルトレーンの革新性がシーンを席巻し、フォロワーの数においてはコルトレーン派が圧倒的多数を占めるようになります。ただ、フォロワーたちがコルトレーンの「型」を模倣しやすかった(ゆえに一大派閥になった)のに対し、ロリンズの演奏はあまりにもその場のインスピレーションと肉体的なタイム感に依存していたため、「真似しようと思っても、天才すぎて誰も真似できなかった」という意味で、ロリンズ派は孤高の存在であり続けました。
ところで、僕はジャズの醍醐味である「即興演奏のリアル」を聴くという意味において、(世評高い『サキソフォン・コロッサス』よりも)1957年の『A Night at the Village Vanguard』こそがロリンズの最高傑作であると思います。『サキソフォン・コロッサス』が、スタジオ録音として完璧にコントロールされ、誰もが認める名演・名構成を収めた「完璧な絵画」だとすれば、ヴィレッジ・ヴァンガードのライブは、その場で引かれた筆の勢いがそのまま残っている「生のデッサン」のような生々しさがあります。このライブ盤がなぜそれほどまでに特別なのか、3つだけ理由を挙げておきましょう。
・ピアノがいない(サックス、ベース、ドラムのみ)という編成であること。
・ピアノがないからこそ、コードから解放された「本当の自由」があること。
・〈夜の部〉におけるエルヴィン・ジョーンズ(ドラム)との火花散る対話の緊張感が素晴らしいこと。
ソニー・ロリンズは、後年ザ・ローリング・ストーンズ『Tattoo You(1981)』、の「Waiting on a Friend」などでソロを担当していますが、これは単なる「余興」だったのでしょうか。結論から言うと、これは決して単なる「余興」や「お遊び」ではなく、ロリンズにとっては自らの音楽的誠実さを貫いた真剣勝負であり、ストーンズ側にとっては平伏するような思いで実現させた渾身のオファーでした。なぜこの共演が「余興」で終わらなかったのか、その裏舞台にはロリンズらしいストイックなエピソードがあります。
当時、ストーンズは「Waiting on a Friend」に本物のジャズ・サックスの響きを求めていました。そこで真っ先に名が挙がったのがロリンズです。しかし、ロリンズは当初、このオファーを断り続けていました。結局ロリンズは引き受けたわけですが、ロリンズはストーンズがどれほど巨大なバンドかを知らず、スタジオに入る際も「ジャズ界の巨人がポップスに魂を売った」と思われるのを嫌がったと言われ「クレジットに俺の名前は載せないでくれ」と言ったと伝えられています。
いざレコーディングが始まると、ロリンズは完全にプロフェッショナルでした。ミック・ジャガーは後年、その時の様子をこう振り返っていると伝えられています(出典は確認できておりません)。「彼はスタジオに入ってくるなり、マイキングを確認して、曲を一度聴くと、そのままサックスを吹いた。ほんの1、2テイクで、あの完璧なソロを吹き切ってしまったんだ。僕らはただ、圧倒されて見ているだけだった」
「Waiting on a Friend」の終盤、ミックのボーカルに絡み合うように入ってくるロリンズのテナーは、ロックのダイナミズムの中にありながら、紛れもなくあの『ヴィレッジ・ヴァンガード』や『サキソフォン・コロッサス』で聴ける太く、エモーショナルで、歌心に溢れたロリンズの音そのものでした。
結果として、この共演はストーンズの歴史にとっても屈指の美しいバラードを生み出すことになり、ロリンズにとっては、普段ジャズを聴かない何百万ものロック・ファンにその圧倒的なトーンを届ける機会となりました。他ジャンルへの浮気や商業的なお祭り騒ぎとしての「余興」ではなく、「どんな場所に呼ばれようと、自分は自分の音を100%の純度で吹き込むだけだ」という、ロリンズの職人としてのプライドが証明された名演だったと言えます。