前回に引き続き、『道徳の系譜学』の第1論文「『善と悪』と『良いと悪い』」を節別に要約し、理解の難しい個所を考察していきます。
分量が多いので6回に分けます。今回は第1論文の初回(第1節~第3節)です。
第1節 イギリスの心理学者たちへの不満
「道徳の起源を調べている連中は、歴史のことも人間の心理も分かっていない」
ニーチェは、「利他主義が道徳の始まりだ」と説明していたイギリスの心理学者たちを批判します。彼らは「昔、他人のためになる行為をされた人がそれを『良い』と呼び、それが習慣になった」と言いますが、それは歴史の事実を無視した机上の空論だと切り捨てます。
* ここで言及されている「一度も閾を超えることがなかったキリスト教にたいする小さな隠された敵意」とは、彼らが抱いている反キリスト教的な感情が、明確な思想や自覚的な批判として表舞台に現れることなく、無意識のレベルで執拗に燻ぶり続けている状態を指しています。
* 心理学における「閾値」とは、ある刺激や感情が意識にのぼるかどうかの境界線のことです。しかしここではそれとは文脈が少し異なり、「ある表象が意識に浮かび上がるかどうかの境界」というくらいの意味です。
* ニーチェから見れば、イギリスの心理学者たちは、人間の高貴な行為や利他心、道徳の起源を「習慣」や「忘却」、「有用性」といった、卑近で泥臭い心理メカニズムに還元しようとしていました。彼らは客観的な科学者を装っていますが、その心理分析の執拗さの根底には、「人間の聖なるものや魂の気高さを引きずり下ろしたい」という、キリスト教の形而上学に対する無意識のルサンチマンや敵意が潜んでいるとニーチェは見抜いたのです。
* 彼らはキリスト教的な道徳観に背を向け、それを解体しようとする試みを行っていながら、自らの敵意を堂々と哲学的な武器として突き立てるほどの強さや自覚を持っていません。ニーチェは、その「陰湿で、小さく、隠された」やり方、つまり自覚的な無神論にまで突き抜けることのない、中途半端で心理学的なおとしめ方を痛烈に皮肉っているのです。
第2節 「良い」の本当の起源
「『良い』と最初に名付けたのは、受益者ではなく、力を持つ強者自身である」
歴史上、最初に「良い(gut)」という言葉を使ったのは、他人に親切にされた弱者ではありません。高貴で、力があり、特権を持った「強者」たち自身です。彼らが自分たちのあり方や行動を「高貴で素晴らしい(=良い)」と肯定し、それに対して平民や弱者のあり方を「卑俗で哀れなもの(=悪い/schlecht)」と区別したのが始まりです。
* ここでのschlechtは、道徳的な非難ではなく、「貴族的な序列における格付け」を含意します。
*「彼らは非歴史的な考え方をする。」ニーチェの言う「非歴史的」とは、「歴史的な文献や事実を調べもせず、現代のイギリス社会で重宝されている『有用性』や『利他主義』が、人類の黎明期からずっと価値の中心であったかのように妄想している」という、痛烈な皮肉なのです。
*「高貴な人は有用性など無視する」とは、どういうことでしょうか。これは、彼らが「これが何かの役に立つか」「これをすればどんな得があるか」という計算ずくで行動しないという意味です。イギリスの学者たちは「他人の役に立つ(有用な)行為」を「善」の起源だと考えましたが、ニーチェに言わせれば、本当の強者や高貴な人々は、そんな実利的な基準で物事を考えてはいませんでした。
* ニーチェが「利己的・利他的の区別は家畜の群れの本能(Herdeninstinkt)に由来する」と言うとき、「利己的か、利他的か」を血眼になって議論すること自体が、すでに「強者のダイナミックな生の肯定」を失い、「群れの中でどうやって大人しく安全に生き残るか」という家畜の視点に転落している証拠だ、ということを述べています。彼は、現代社会が「利他的なもの=無条件に善」と信じ込んでいる背景には、この「牙を持たない弱者たちの群れの本能」が歴史的に勝利を収めた結果がある、と見抜いていました。
第3節 功利主義的な説明の矛盾
「『役に立つから良い』というのは、後付けの忘却に過ぎない」
イギリスの思想家たちは「実用性」と「良さ」を結びつけがちですが、本来の「良い」は強者の誇り高い感情から生まれたもので、実用性とは無関係でした。彼らの説明は、言葉の本来の意味を忘れてしまった人間の勘違いです。
* イギリスの学者たちが考えた「善」の誕生プロセスをおさらいします。彼らはこう主張しました。
【過去】誰かが「みんなの役に立つこと(利他的な行為)」をした。周りの人は「これは有用だ!」と大喜びし、それを「良い(善)」と呼んだ。
【経過】時が流れるにつれ、人々はその行為を「良い」と呼ぶのが当たり前になりすぎて、「元々は『役に立つから』良いと言い始めたんだ」という最初の理由(有用性)を忘れてしまった。
【現在】理由を忘れた結果、「利他的な行為は、何かの役に立つからではなく、それ自体が絶対的に善いことなのだ」と思い込むようになった(=これが現代の道徳である)。
* ニーチェはこの「忘れた」という部分に、真っ向からノーを突きつけます。「もし『役に立つから良い』と言われ始めたのなら、人間がそれを忘れることなど絶対にあり得ない。」なぜなら、利他的な行為は、大昔だけでなく、今この瞬間も、毎日毎日、僕たちの社会の役に立ち続けているからです。
* これは、心理学的に完全に破綻しているという批判であると同時に、そもそも『良い』という言葉が『有用』という意味で使い始められた証拠がない」という語源論的・歴史的批判でもあります。
* この矛盾は、第1節で指摘した「非歴史的な態度」と根を同じくしています。彼らは現在の功利主義的な価値観を所与のものとして出発するため、「良い」という言葉が本来まったく異なる文脈——強者の自己肯定——から生まれたという歴史的事実を見落とすのです。