今回は、第1論文の第2回(第4節~第6節)です。

第4節 言語学的な証拠

「言葉の歴史を辿ると、『良い=高貴』『悪い=卑俗』だったことが分かる」

ニーチェは様々な言語(特にギリシャ語やドイツ語)の語源を調べ、「高貴な」「気高き」を意味する言葉が、やがて道徳的な意味での「良い(上等な)」に変化し、逆に「卑俗な」「階級が低い」を意味する言葉が「悪い(下等な)」へと変化していった証拠を提示します。

* この「語源」の解明は、「功利主義的な起源説(「良い」はもともと有用な行為への称賛として生まれたとする説)を打破し、「良い」の原意が「高貴・高潔」であることを証明し、「主人の道徳」から「奴隷の道徳」へのルサンチマンを浮き彫りにします。

* 言葉の系譜を辿ることで、道徳の聖性を剥ぎ取り、それが単なる「生の権力闘争」のツールであることを暴露する。これこそが、ニーチェが語源の解明を「きわめて重要な洞察」と呼ぶ理由です。

第5節 支配者階級と「清浄な者(die Reinen)」

「強者は自分たちを『真実を語る者』と呼び、弱者を『嘘つき』と見た」

高貴な支配者階級は、自分たちを精神的にも肉体的にも「清浄な者」とみなしました。これに対し、奴隷的な平民階級は、生きるためにコソコソと嘘をつかなければならないため、軽蔑を込めて「悪い(下劣な)」と位置づけられたのです。ここまでの段階では、まだ「悪い」に「道徳的な悪(罪)」という意味はありません。単に「劣っている」という意味です。

* 「清浄な者」とは、「かつて支配者階級のなかで、身体的な清浄さを誇った祭司たち(のちの宗教的道徳の祖)のあり方」のことです。彼らが「純粋」という一見ポジティブな言葉を特権化したことが、結果として人類を「生の否定(禁欲・ニヒリズム)」へと向かわせる引き金になった、とニーチェは看破しています。

* ニーチェはなぜこれほど難解な語源論を重ねるのでしょうか?それは、「道徳は、天から降ってきたものでも、理性が生み出したものでもなく、ただの『歴史的な勝者の言語の痕跡』である」ということを、当時の学問的エビデンスを使って補強したかったからです。歴史家たちが「利他主義の進歩」として美化してきた道徳の歴史を、ニーチェは「言葉の裏に隠された生々しい権力闘争の記録」へと引きずり下ろそうとしているわけです。

第6節  『司祭階級』の登場と変質

「肉体的な強者とは別に、精神的な汚れを嫌う『司祭』という特異な階級が生まれた」

高貴な人々の中から、やがて「聖職者(僧侶)」の一団が生まれます。彼らは戦士のような肉体的な強さではなく、「清と汚」という精神的な清純さを至上命題にしました。この聖職者たちの登場によって、これまでの「良い/悪い」という健康的な価値観が、不健康で、内向的で、危険なものへと歪み始めます。

* 第6節で「こうした司祭で構成された貴族階級には、最初からどこか不健全なものがあった。」とあります。ここでニーチェが指摘している「不健全さ(Ungesundheit)」とは、単に「病気がちである」ということにとどまらず、「生きるための生命力(本能や身体性)が内側から歪み、蝕まれている状態」を指しています。

* この不健全さはのちに「健康で強いものに対する、病んだものたちの復讐(=奴徳道徳の勝利)」を準備することになります。「最初からどこか不健全なものがあった」という指摘は、私たちが崇高だと信じている宗教や道徳の精神性が、実は「肉体の不健康と、発散できない無力な憎悪」から出発しているという、系譜学的な欠陥を暴くための、冷徹な診断書なのです。

*「司祭としての人間において初めて人間の魂が、より高い意味で深みのあるものになったのであり、邪悪なものになったのである」という一節もまた、『道徳の系譜学』のなかで最もスリリングで、かつ誤解されやすいパラドックス(逆説)に満ちた難所です。

* ニーチェはここで、司祭たちを単に「病んでいて、卑劣で、悪い奴らだ」と全否定しているわけではありません。むしろ、「彼らのもたらした不健全さ(病)こそが、皮肉にも人間を『ただの動物』から『深く、知的な存在』へと進化させたのだ」という、人類史に対するアンビバレント(二面価値的)な驚嘆を語っています。

* 「司祭のおかげで、魂が深みのあるものになり、邪悪になった」という言葉は、「人間がこれほど高尚で知的な存在になれたのは、他でもない、あの陰湿で病んだルサンチマン(怨恨)の歴史があったからだ」という、人間の精神の「暗い出生の秘密」を突きつける、極上の皮肉なのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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