前回は、ニーチェの『系譜学』を継承する者として、ミシェル・フーコーを取り上げました。
フーコー以外にも、ニーチェの系譜学的手法を受け継いだり、あるいは独自の文脈からそれと酷似した「価値の起源を暴く批判的アプローチ」を展開している哲学者は複数存在します。彼らは単に過去の歴史を調べるのではなく、私たちが「自明の理」としている概念(理性、主体、アイデンティティ、正義など)の裏にある、ドロドロした権力闘争や排除の歴史を明るみに出そうとします。
たとえば、ジャック・デリダ(Jacques Derrida)の「脱構築(Deconstruction)」は系譜学とは異なる用語体系を持ちますが、ニーチェ系譜学と相同な批判的実践を持つものと言えます。
デリダは、西洋哲学が伝統的に持っている「二項対立(霊魂/肉体、理性/感性、内/外など)」を扱い、常に前者が優位に置かれてきた歴史を疑います。
ある概念(例えば「正義」や「法」)が誕生する瞬間には、実は合理的な理由ではなく、根拠のない暴力や決定(決定不可能性の横暴)が働いていることを示します。法の起源を遡ると、その始まりは法的に正当化できない「暴力的な創設」に行き着くという指摘(『法の力』など)は、ニーチェの「価値の起源は卑俗で暴力的である」という系譜学と相通じるものがあります。
デリダと言えば、『狂気の歴史』をめぐってフーコーとの論争がありました。哲学史上に残る有名な「狂気論争」です。1963年にデリダがフーコーの『狂気の歴史』を批判する講演を行い、それにフーコーが激怒して反論、二人は10年近く絶交状態になりました。
この論争は単なる感情的な喧嘩ではなく、「理性の外側にある『狂気』を、理性的な言葉で語ることは可能なのか」という、哲学の本質に根ざしたきわめて深い対立でした。論争のタイムラインは以下のようになります。
1961年:フーコーが『狂気の歴史』を発表。
1963年:デリダが講演「コギトと狂気の歴史」でフーコーを批判(1967年『エクリチュールと差異』に収録)。
1972年:フーコーが『狂気の歴史』再版の付録「私の身体、この紙、この火」でデリダに猛反論。
デリダの批判は、「理性で狂気を語ることは「新たな監禁」である」というものでした。それはフーコーの試みそのものの「不可能性」を突くものでした。フーコーは『狂気の歴史』のなかで、近代(デカルト以降)の理性が「狂気」を排除・隔離することで自らを確立していくプロセスを描き、「隔離される前の、まだ野生状態だった狂気そのものの声」を代弁しようとしました。
これに対してデリダは、次のように論じます。「フーコーは狂気そのものの声を解放しようとしているが、彼が使っているのは「近代哲学の理性的な言語」そのものではないか。秩序正しく論理的な言葉で「狂気」を記述した瞬間に、それはすでに理性のルールに回収されており、結局は狂気をもう一度別の形で「監禁」しているに過ぎない。」デリダに言わせれば、狂気そのものを語ることは不可能です。なぜなら、言葉を発した時点でそれは理性の領域に入ってしまうからです。
デリダは、フーコーによるデカルト『省察』の読みの誤りも指摘しました。フーコーは「デカルトは狂気を思考から簡単に排除した」と批判しましたが、デリダは「デカルトは夢や錯覚よりもさらに過激な可能性として狂気を検討しており、むしろ理性の限界を極限まで押し広げようとしたのだ」と擁護しました。
これに激怒したフーコーは、9年後の1972年に痛烈な反論を放ちます。フーコーから見れば、デリダの批判は「現実の歴史や権力から目を背けた、机上の空論(言葉遊び)」に映りました。フーコーの反論の要点はこうです。「デリダは歴史の中で実際に起きた「生々しい排除、監禁、制度の暴力」を見ようとせず、すべてを「テキストの中の出来事」に還元してしまっている。哲学のテキストをいくら内側から精緻に読み解いたところで、現実に狂気として隔離された人々の苦しみや、社会的な権力構造を批判することはできない。」
フーコーは、デリダの手法を「君主主義的なおこがましさ」とまで呼び、哲学を社会実践から切り離して知的ゲームに仕立て上げていると非難したのです。
この二人の決裂は、現代思想における2つの巨大なアプローチの分岐点となりました。フーコーの道は、言葉の裏にある「社会制度、権力、身体の管理」といった具体的な歴史・実践を分析する道であり、デリダの道は、言葉の構造そのものが抱える「矛盾や自己崩壊(脱構築)」をテキストの内部から暴いていく、純粋哲学・言語批判の道です。どちらも「近代の理性」を疑う点では一致していましたが、その武器が「歴史(社会)」か「言語(テキスト)」かで決定的に違っていたと言えます。
ちなみに、この決裂から長い年月を経て、1981年にフーコーがポーランドの連帯運動支援に関連して拘束・尋問のリスクにさらされた際、デリダが救出活動に奔走したことなどをきっかけに、晩年には二人の和解が実現しています。1984年にフーコーが亡くなった際、デリダは深い哀悼の意を捧げました。
一方、この論争においてジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)は、フーコー寄りの立場を取りました。ドゥルーズはフーコーの盟友であり、基本的にはフーコーの「現実の制度や身体の管理(権力のネットワーク)」を分析するアプローチに強く共感していました。
ドゥルーズ自身も『アンチ・オイディプス』などで社会的なコードや欲望の回路を分析していたため、「テキストの内部に閉じこもる(言語ゲームに終始する)」デリダ的な手法には批判的でした。しかし面白いことに、ドゥルーズはのちにフーコー自身とも、決裂することになります。この決裂は、罵り合うような派手なものではなく、お互いの哲学的な誠実さを貫いた結果としての「静かな、しかし決定的な離反」でした。1970年代の半ば、二人は公式の場での対話をほぼ止め、個人的な交流も途絶えてしまいます。
二人の距離を広げた最大の原因は、「欲望」と「快楽」のどちらを人間の社会や生の根源とみなすかという、哲学的な核心部分での対立でした。1977年にドゥルーズがフーコーに送った私信(A〜Hのノート形式で構成され、フーコーの死後1994年に Magazine littéraire 誌上で公開された。「Désir et plaisir=欲望と快楽」として知られる)に、その亀裂がはっきりと残されています。ドゥルーズ(と共著者のフェリックス・ガタリ)にとって、世界の根底にあるのは「欲望(désir)」でした。ここでの欲望とは個人的な性欲などではなく、既存の社会の枠組みからはみ出して流動する「生のエネルギー」や「創造的な流れ」のことです。欲望はそれ自体で肯定的・生産的なものであり、権力や制度はその欲望の流れを後から管理・せき止めるために生まれた二次的な装置にすぎない、というのがドゥルーズの立場でした。
一方、フーコーは「欲望」という概念そのものに懐疑的でした。「欲望」と言った途端に、それを抑圧・解放するものとしての権力が前提となり、まるで権力の外側に純粋な欲望が最初から存在しているかのような図式になってしまう——フーコーはそこに罠を見ていました。フーコーが代わりに重視したのは「快楽(plaisir)」という概念です。快楽は欲望のように「抑圧されるべき内なる自然」というイメージを持たず、具体的な実践や関係性の中で形作られるものです。快楽に着目することで、権力と主体の関係をより柔軟に、また「解放」という図式に回収されない形で分析できると考えたのです。
ドゥルーズから見れば、フーコーの「快楽」への移行は、権力の外に出る可能性——「逃走線」——を封じてしまうものに映りました。フーコーは「権力があるところには常に抵抗がある」と述べつつも、その抵抗すら権力のネットワークの内部でしか起こり得ないと冷徹に捉えていました。ドゥルーズが社会の枠組みの外へ飛び出す創造的エネルギーを信じていたのとは、対照的な姿勢です。
この哲学的な亀裂に加えて、当時のフランスの政治・思想状況(1970年代後半)も二人の距離を決定づけました。当時、マルクス主義や左翼運動の行き詰まりから、ソ連の収容所群島などを批判し、「国家や権力はすべて悪だ」と主張するベルナール=アンリ・レヴィらの「新哲学者(ヌーヴォー・フィロゾフ)」と呼ばれる若い知識人たちがメディアで大ブームになりました。フーコーは、彼らの「国家権力批判」というテーマ自体には一定の理解を示し、好意的な書評を書くなどして彼らを後押ししました。
ドゥルーズはこれに対して、「新哲学者たちの主張は「中身のないただの反共マーケティング(メディアのお荷物)」にすぎず、哲学を退化させるものだ」と激しく批判しました。この「新哲学者たちをどう評価するか」というメディアを巻き込んだ知識人のスタンスの違いが、二人の溝を決定的なものにしたと言われています。
「私は(悲しみもなく)次のような強い印象を持っていた。つまり、結局のところ私は彼を必要としていたが、彼は私を必要としていなかった、という印象である」
(“J’ai eu l’impression, sans tristesse, que finalement j’avais besoin de lui, et que lui n’avait pas besoin de moi.”)
― ジル・ドゥルーズ Pourparlers (1990年、邦訳は『記号と事件』)
しかし、二人の間にリスペクトが消えたわけではありませんでした。1984年にフーコーが亡くなった際、ドゥルーズは葬儀でフーコーの『性の歴史』の序文を朗読し、その後、追悼の念を込めて丸ごと一冊フーコーの思想を論じた名著『フーコー』(1986年)を書き上げます。
フーコーが1970年の書評「劇場としての哲学」において、「いつかこの世紀はドゥルーズの世紀と呼ばれるだろう」と賛辞を送ったのに対して、ドゥルーズも「いや、この世紀はフーコーの世紀だ」と返したというエピソードがあるそうですが(こちらの方は出典未確認です)、二人はすれ違い、距離を置きながらも、最後までお互いを「並び立つ巨頭」として意識し続けていたようです。
ドゥルーズはインタビューのなかで、「フーコーは非常にミステリアスな人物であり、彼の思考は常に「予期せぬ跳躍や危機」を経て変化していた」「後年のフーコーはある種の個人的・政治的な危機の中にあり、そこへ向かう彼を誰も(親しい者でさえも)追いかけることができなかった。」「それゆえに、二人の距離が離れていったのは感情的な決裂ではなく、お互いの思考の軌道が自然とそうなったのだ。」と述べています。
この一節は、1977年の『性の歴史 第1巻 知識への意志』の出版以降、二人の間に生じた哲学的なズレ(「欲望」と「快楽」の優先順位をめぐる対立)を、ドゥルーズが後年になって非常に客観的に、かつ深い敬意を込めて総括した言葉として、現代思想史においてよく引用される重要な場面です。