今回は、第1論文の第4回(第10節~第12節)です。
第10節
「ルサンチマン」の心理的メカニズムが中心テーマです。貴族的人間は自己肯定から出発し、他者への軽蔑は二次的なものにすぎません。これに対し奴隷道徳は、外部の敵・他者への「否」から始まります——「彼らは悪い、ゆえに私たちは善い」という論理です。ルサンチマンを抱えた人間は、行動する力を持たないがゆえに、想像の中で復讐を果たします。彼らの「善い人間」像は本来的な自己肯定ではなく、高貴な者への憎悪と嫉妬の産物なのです。
* ニーチェが主として念頭に置いているのは、ユダヤ人・キリスト教的伝統の担い手としての「司祭」および「奴隷道徳」を体現する民族・階級一般です。特定の個人というよりも、類型としての「司祭的人間」です。
* ニーチェが描く「奴隷道徳の反乱」の起源は、中世ではなく、古代ユダヤ人にあります。ローマの貴族的価値(強さ・誇り・高貴さ)に対して、政治的・軍事的に無力であったユダヤ人が、価値の転倒を行った——「強者は悪い、弱者は善い」という逆転——これがルサンチマン道徳の歴史的出発点だとニーチェは見ます。
つまりニーチェの図式では以下のようになります。
古代ユダヤ:ルサンチマン道徳の発生源
初期キリスト教:その伝播と完成
中世キリスト教会:司祭支配による制度的定着
近代の民主主義・社会主義:同じ価値転倒の世俗的継承
第11節
ここでニーチェは歴史的・語源的考察に踏み込みます。「善良(gut)」「卑賤(schlecht)」という語の起源を問い直すことで、「善/悪」の対立は道徳的発明ではなく、社会的・階級的な区別の道徳化にすぎないことを論じます。とりわけ注目されるのは、「金髪の猛獣(blonde Bestie)」への言及です。これはゲルマン人のみならず、ローマ人・アラビア人・日本の武士なども含む「貴族的=戦士的民族」の象徴として提示されます。彼らの残酷さや略奪性は否定されませんが、それでも彼らは「ルサンチマン」の毒を持たない、率直な生の力の表出だとニーチェは見るのです。
* 「金髪の猛獣」の「金髪」は、ライオンの金色のたてがみを指しているという解釈が有力です。ライオンはニーチェの著作全体で重要な象徴です。『ツァラトゥストラはこう語った』の「三段の変化」——ラクダ→ライオン→子供——において獅子(Löwe)は、既存の価値への「否」を言い、自由を奪い取る力の象徴として登場します。「金髪の猛獣」もこの延長上にある象徴と読めます。
* 『ツァラトゥストラはこう語った』の獅子(Löwe)は、それ自体はまだ新しい価値を創造する段階ではありません。新たな価値の創造は第三段階の「子供」に委ねられます。つまり獅子は解放の力ではあっても、究極の肯定にはまだ至っていない。この点が「金髪の猛獣」との比較で興味深い論点になります。
第12節
この節は「人間に倦むこと」と題されています。人間に対する耐え難さを表明した後に、ニーチェはそれでも希望を表明します。それはルサンチマン道徳を超えた人間の可能性への展望を示すかのようです。
* 「かの人間なるものを弁明する1人の人間に[このわたしに]欠けているものを補い、人間を救済してくれる幸福を一瞥することを許したまえ!」の1節は第12節の締めくくりに近い部分に置かれており、文脈を踏まえると以下のように読めます。
ニーチェは、「人間とは何か」という問いに対する悲観主義的・厭世主義的な答え——ショーペンハウアー的な人間観——を念頭に置いています。「人間は矮小で、病んでいて、ルサンチマンに満ちた存在だ」という見方です。「かの人間なるものを弁明する一人の人間」とは、ニーチェ自身、あるいはツァラトゥストラ的な人間像——人間の現状を直視しつつも、そこに留まらず超克の可能性を見る者——を指していると読めます。
つまりニーチェが示しているのは、
ルサンチマン道徳が勝利した結果、人間像が矮小化された
その矮小化された人間を見ると「倦怠」しか感じられない
しかしそれが人間の最終的な姿ではない
その人間を「弁明」し、救済の可能性を示す者がいる
という肯定的な身振りです。
* ここで言う「救済」はキリスト教的な意味での救済ではありません。むしろキリスト教的救済概念へのアンチテーゼとして置かれています。ルサンチマン道徳に絡め取られた人間像を超えた地点に、別の人間の可能性を「一瞥」させる——それがニーチェのここでの身振りです。
12節最後に「人間を一瞥すると、ひたすら倦むばかりである。 今日のニヒリズムは、それ以外のどんなものだろうか。わたしたちは人間と言うものに倦んでいるのだ。」とあります。先ほどの「救済を一瞥させる」という肯定的な身振りの直後に、この言葉が来るわけです。つまりこれは対比的な構造になっています。
* ニーチェにとってニヒリズムとは単に「虚無を信じる思想」ではありません。人間への倦怠、人間の可能性への信頼の喪失——それがニヒリズムの本質だということです。そしてその倦怠の原因はどこにあるか。第1論文全体の文脈で言えば、奴隷道徳・ルサンチマンが人間を矮小化し、「飼いならされた家畜」へと変えてきた歴史的帰結です。だからこそ直前の「救済を一瞥させる」という言葉が意味を持ちます。
第12節はこの対比によって、第1論文全体の問題意識——ルサンチマン道徳の批判——をニヒリズム論と接続する節として機能していると読めます。