大した知識もなく上野の東京都美術館に『アンドリュー・ワイエス展』を観に行きました。

アンドリュー・ワイエス(1917-2009)は、20世紀アメリカ美術において非常に特異かつ重要な位置を占める画家です。
20世紀中盤、アメリカ美術界はジャクソン・ポロックらに代表される「抽象表現主義」が主流でしたが、ワイエスは一貫して写実的な表現にこだわりました。

彼の絵は単なる風景や静物画の記録ではありません。日常的なモチーフの中に、静寂、孤独、あるいは「不在」を描き出すことで、見る者の心象風景に深く入り込むような不思議な緊張感を生み出します。

今回の展覧会のテーマでもある「境界(窓や扉など)」は、生と死、内と外、記憶と現実を隔てる装置として描かれています。これは西洋美術史における古典的なテーマでもありますが、ワイエスはそれを非常に個人的で内省的な精神世界の表現として再構築しました。

ワイエスの作品が持つ独特の「質感」や「空気感」は、非常に緻密な古典的技法から生まれています。それは「卵黄テンペラ」(私は、金沢百枝先生の新潮社の「青花」という美術講座で「テンペラ」の実演を見たことがあります。)や「ドライブラッシュ」です。特に後者は水彩画やテンペラで用いられる、ワイエス特有の技法で、余分な水分や絵具を布や紙などで拭い取り、ほとんど乾いた状態の筆で描くことで、細部をかすれさせながら描き込みます。これにより、草の質感や布のざらつき、空気の乾いた感じなどが非常にリアルに表現されます。

ワイエスは、人物を描く際も、そこに誰かがいた形跡や気配を漂わせながら、あえて姿が見えない、あるいは視線を逸らしている構図をとることがあります。この「不在」の演出が、作品に物語性を与え、見る人の想像力を刺激する要因となっています。ある種、彼が見ているのは「物理的な風景」ではなく、その風景が内包している「時間という物語」です。

ワイエスは、彼が深く関わった人々(クリスティーナ・オルソンなど)との関係を、一つの悲劇的かつ崇高な物語として再構成しました。彼の描く「境界」は、彼自身が経験した「父親の事故死」や「自身の肺疾患による死の淵」といった強烈な体験に基づいています。そのため、学術的な哲学的概念というよりは、彼の人生そのものを綴った私小説のような性質を帯びています。

ワイエスが美術史のメインストリーム(特に戦後の抽象表現主義やミニマリズム)から距離を置いていたことは事実ですが、彼の残した影響力は非常に深く、かつ多層的です。

ワイエスが美術界以上に熱狂的に受け入れられたのは、映画というメディアを通じてでした。彼の作品が持つ「時間」や「気配」の表現は、多くの映像作家の原風景となっています。例えば、テレンス・マリックやエドワード・ヤンなど映画監督の作品に見られる、人物と背景を静かに結びつけるロングショットや、光と影によって「不在」を語る手法には、ワイエス的な視覚言語の系譜を感じさせます。

1960年代後半から台頭したフォト・リアリズムが、写真の客観的な描写を追求したのに対し、ワイエスは「写実」を「対象と自分との間にある記憶や感情を定着させるための手段」として提示しました。この「個人的なリアリズム」という姿勢は、現代においても、単なる技巧としての写実を超えようとする多くの写実画家たちの指針となっています。

現代美術において「個人的な歴史」や「アイデンティティ」を作品化する手法が一般的ですが、ワイエスはそれを1940年代から一貫して行っていました。土地や特定の人物を執拗に追いかけ、その変遷を描き続けた姿勢は、現代のドキュメンタリー的なアプローチにも通じるものがあります。

ワイエスは、アメリカという国のアイデンティティの一部を、ある種の神話的なレベルで固定してしまいました。グラント・ウッドらが描いた「アメリカン・ゴシック」的な伝統を、より内省的で、より不安の混じったものへと変容させました。彼が描いたアメリカの田舎は、多くの現代のアメリカ人にとっても「失われた原郷」であり、同時に「逃れられない閉塞感」を象徴する場所として、後世のアーティストたちのモチーフになっています。

「失われた原郷」という概念が、実は描く側(ワイエス)や見る側(鑑賞者)が後付けで捏造した神話に過ぎないのではないか、という問いは、美術史や文学批評においても常に議論の対象となってきました。実際、ワイエスの絵画を細かく検証すると、それが単なる「ありのままの写実」ではないことがわかります。彼は風景の中に落ちている物体を意図的に動かしたり、複数の時間や季節の要素を一つの画面に合成したりしていました。

彼にとっての「土地」は、客観的な場所ではなく、自分の記憶やトラウマを投影するための「舞台装置」でした。つまり、ワイエス自身が「自分だけの理想化された、あるいは呪われた原郷」を現実の風景を借りて構築していたと言えます。

私たちは皆、どこか「自分が本来属していたはずの場所」があるような錯覚を抱いて生きています。ワイエスは、その「錯覚そのもの」を極めて高い技巧で可視化したのです。そう考えると、ワイエスの絵が「実在しない場所を描いている」ことは、むしろ彼が描こうとしたテーマ(孤独、不在、記憶の不確かさ)を補強しています。

ノスタルジーとは「過去の改変」です。アイデンティティの連続性において、人間は自分の過去を常に物語として再構成します。「原郷」という言葉は、その再構成の過程で、過去の不快な記憶が削ぎ落とされ、都合よく美化された「観念の抜け殻」に過ぎないかもしれません。ワイエスの描く荒涼とした風景は、その「ノスタルジーが削ぎ落とした後の冷徹な現実(あるいは空虚)」を突きつけているようにも見えます。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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