今回は、第1論文の第5回(第13節)です。長いので第13節だけで1回分になってしまいました。
この節で、ニーチェは、「弱者がルサンチマンによる価値の転倒を行うのは、行為の「主体」(Subjekt)というありもしない概念を捏造しているからだ」と述べます。
冒頭で「善の問題」を対比的に提示し、「二番目は、ルサンチマンの人間が考え出した善の問題」であると述べています。前節までの記述から、一番目は、「高貴な人間が自分自身から出発して「よい」と定める問題」と考えて良いでしょう。
ニーチェは、「猛禽類に憤慨するのはいいが、文句をつけるのはだめだ」と言っています。ニーチェ独特の比喩ですが、いったい何を言っているのでしょうか。
「猛禽類に文句をつけるな」という言明は、「弱者よ、諦めろ」という道徳的命令ではありません。これは自然の論理の記述です。猛禽類が小羊を捕食するのは、猛禽類の「本性の発揮」であって、そこに行為主体が「悪を選んだ」という構図はありません。稲妻が「光ることを選ぶ」のではないのと同じです。ニーチェがこの節で攻撃しているのは、弱者の感情ではなく、「行為の背後に中性的な基体(Subjekt)がある」という文法的・形而上学的錯覚です。
弱者の論理は「強者は強くふるまわないこともできるはずだ。それをしないのは悪意による選択だ」というものです。これを可能にするのが「強さとは別に、強者という主体がまずある」という想定です。しかしニーチェは言います——強さと強さの発揮は分離できない、と。
この対比で言えば、「憤慨(ressentiment感情そのもの)」とは、弱者に起きる自然な心理反応であり、ニーチェはその発生を否定しません。一方「文句(道徳的非難・価値転倒)」とは、感情を「強者は悪を選んだ」という形而上学的虚構に変換する操作であり、ニーチェが批判するのはここです。感情の次元と、概念的・道徳的言語への変換の次元を、ニーチェは区別しているわけです。
「行為・作用・生成の背後には、いかなる「存在」もない」とありますが、これはプラトンからカントにいたるまでの哲学への批判です。
批判の第一層は以下のような「実体概念への批判」です。
「行為の背後に存在がある」という想定は、西洋哲学の根本的な文法です。プラトンにおいては、現象の背後にイデア(真の存在)がある。個々の正義な行為の背後に「正義そのもの」というイデアが存在します。ニーチェの言葉で言えば、「光ること」の背後に「光るものとしての稲妻の本質」を想定する思考です。
アリストテレスの実体(ウーシア)概念もここに入ります。個物の背後に形相(エイドス)という「何であるか」が存在するという構図です。
批判の第二層は「カントへの批判」です。これはやや複雑で、ニーチェの批判は二方向あります。
一つ目は超越論的主観への批判です。カントは現象の背後に物自体は認識不可能と言いながら、しかし「統覚の統一」つまり「私は考える」という主体を経験の条件として措定しました。ニーチェから見れば、これは「行為の背後に行為する主体がいる」という同じ文法的錯覚の洗練された形です。
二つ目は自由意志と道徳的責任の構図への批判です。カントの道徳哲学は「傾向性から独立して行為を選択できる理性的主体」を要請します。これはまさにニーチェが本節で解体しようとしている「強者は強くふるまわないこともできたはずだ」という弱者の論理と同型の構造を持っています。
しかしニーチェの批判でもっとも鋭い点は、これが単に個々の哲学者への批判ではなく、インド・ヨーロッパ語族の文法そのものへの批判だという点です。主語-述語構造を持つ言語では、「稲妻が光る」と言う時に、光ることとは別に「稲妻」という主体がまず存在するように見えてしまう。「人が行為する」と言う時に、行為とは別に「人という実体」がまず存在するように見えてしまいます。要するに、ニーチェの洞察は、「言語と文法が存在論的錯覚を生み出す」というものです。
ここで重要なのは、ニーチェが単に「主体は存在しない」という形而上学的主張をしているのではないという点です。
彼が言っているのはより系譜学的な主張です。すなわち、「「主体」という概念には起源がある。それはルサンチマンという特定の心理的・政治的必要から生まれた。」という主張です。
「我」という概念の背後にルサンチマンという汚れた起源がある。これは、哲学的に最も清潔に見える概念が、最も泥臭い欲望から生まれているという逆説です。
ここで、根本的な問いが生じます。それは、「「主体が捏造だ」と言うニーチェ自身は誰が言っているのか。この批判をする「ニーチェ」もまた主体ではないのか。」という問いです。
ニーチェはこの自己言及的な問題を完全に解決しているわけではありません。ただ彼の応答の方向は、「私ニーチェが真理を語る主体だ」という立場を取るのではなく、この語りそのものも力への意志の一表現だという方向です。真理の主張ではなく、解釈を提示しているのです。