今回は、第1論文の第6回(第14,15節)です。
第14節
この節は「理想の製造工場の魔術」と題されていますが、いわゆるルサンチマンが幸福をどう作り出すか、について書かれています。
ニーチェがここで暴こうとしているのは、奴隷道徳における幸福が本質的に否定を通じて生産されるという構造です。
貴族的人間の幸福は自発的・肯定的です。「私は善い」という確信から出発し、外部への参照を必要としません。それは能動的な自己肯定です。これに対して、ルサンチマンの人間の幸福は想像的な復讐の副産物として生まれます。「あの者たちは悪い」という否定的判断が先行し、その反転として「われわれは善い」という自己規定が事後的に構成される。幸福は一次的に経験されるのではなく、製造されるのです。
「製造工場(Werkstätte)」という言葉をニーチェが選んだことは重要です。工場は自然物を作るのではなく、原料を加工して別の何かに変換する場所です。ここでの原料は怨恨・苦しみ・無力感であり、製品は「道徳的優越感に裏打ちされた幸福」です。つまりニーチェは、奴隷道徳の幸福をgenuine(真正)な幸福ではなく、錬金術的変換の産物として描いています。苦しみが幸福に変換されるのですが、その変換プロセスは意識には透明でない。これが「魔術(Zauberei)」と呼ばれる所以です。
特に注目すべきは、ニーチェが無力(Ohnmacht)が「善」に変換されるメカニズムを具体的に示している点です。復讐できないことを、復讐しないことを「選んでいる」と解釈し、「復讐しないこと=善」という価値転換が起きるのです。これはただの自己欺瞞ではなく、ニーチェにとっては意志の創造的な歪曲です。能動性の不在が、能動的な徳の選択として再解釈される。羊が猛禽を恨みながら「われわれは羊であることを選んでいる」と言うあの有名な議論(第13節)と連続しています。
ニーチェの批判は「幸福を感じていない」という批判ではありません。ルサンチマンの人間は実際に幸福感を経験しています。問題はその幸福が生の肯定から来るのではなく、他者の否定から来るという起源と構造にあるのです。
第15節
続く第15節は天国を描写した節ですが、ここではニーチェが「ルサンチマンの人間自身に語らせる」という劇的転換が起きています。
具体的にはトマス・アクィナスに帰せられる一節が引かれ、祝福された者たちが地獄の責め苦を上から見下ろして享楽するという場面が描かれます。天国の幸福は単なる安らぎではなく、罰せられる者たちを目撃することで完成するという構造です。
ニーチェがこの引用を持ち出す意図は明確です。表向きは「来世での報い」「神の愛」「謙虚さ」を説く道徳が、その深層において復讐の幻想を糧にしていることを、当事者自身の言葉で示すことです。天国の描写が復讐の充足として読めてしまうなら、それはニーチェの分析が正しいことの傍証として機能します。14節の「製造工場」という分析的記述が、15節では具体的な産物の展示として続く、という構成です。
トマスの引用の当該箇所は『神学大全』補遺(Supplementum)第94問(Q94)です。そこでトマスは、祝福された者たちが天国で断罪された者たちの苦しみを見るかどうかを論じており、ニーチェが引用したラテン語「Beati in regno coelesti videbunt poenas damnatorum, ut beatitudo illis magis complaceat」(天国の祝福された者たちは断罪された者たちの刑罰を見るであろう、そうすることで彼らの至福がより喜ばしいものとなるように)が含まれています。 補遺はトマスの弟子たちが彼の初期の著作『命題集注解』(Commentarium in Sententias)を素材として編纂されたものですが、内容はトマスの思想を反映しており、ニーチェの引用は基本的に正当と見てよいと思います。