いよいよ第1論文の最終回(第16,17節)です。
第16節
まず冒頭で、「良い悪い」と「善と悪」という二つの対立する価値評価が出てきます。復習しておきましょう。「良い/悪い(gut/schlecht)」は貴族的価値評価です。「良い」が一次的・能動的であり、強さ・高貴さ・肯定を意味します。「悪い」は二次的・付随的であり、「良い」の単なる影として、劣ったもの・低いものを指します。否定的感情を伴わない軽蔑です。一方、「善/悪(gut/böse)」は奴隷的価値評価です。「悪」が一次的・能動的であり、貴族的な「良い」人間がルサンチマンによって「悪」として定義し直されます。「善」は二次的であり、「悪」の否定として事後的に構成されます。
この節でニーチェが提示するのは、ある歴史哲学的な「勝敗の読み替え」です。表面的には敗者に見えるユダヤが、実は道徳史において勝者であるという逆説的テーゼです。ローマとユダヤの対立は、貴族道徳(主人道徳)対ルサンチマンの道徳(奴隷道徳)の対立として提示されます。ローマは前者の典型であり、貴族的・積極的価値定立の体現者です。ユダヤはそれに対し、ルサンチマンによる価値の転倒を遂行しました。重要なのは、ニーチェが言う「ユダヤの勝利」が、軍事的・政治的勝利ではなく、価値論的・形而上学的な勝利だという点です。
ニーチェはこの歴史的対立を次のように展開します。ローマ=カトリック教会に対する宗教改革は、一見するとローマへの反逆に見えます。しかしニーチェの読みでは、宗教改革はむしろユダヤ的なもの(奴隷道徳、ルサンチマン)がカトリックの貴族制的・ルネサンス的要素を叩き潰した事件として解釈されます。ルターはローマの貴族主義的精神に対するプロテストを体現した、つまり「ユダヤの勝利」の継続なのです。フランス革命も、決定的な出来事として描かれます。自由・平等・博愛というフランス革命のイデオロギーは、キリスト教的=ユダヤ的ルサンチマンの道徳が、ついに政治的・世俗的形態をとって爆発したものとして読まれます。革命は「ユダヤの勝利」の政治的完成形です。
ここでニーチェが遂行していることは、単なる反ユダヤ主義でもなく、キリスト教批判に留まるものでもありません。ニーチェが問題にしているのは、近代ヨーロッパの「進歩」「解放」「平等」という理念そのものが、ルサンチマンの産物ではないかという疑念です。つまり、近代人が自明と信じる価値体系は、その起源をたどれば、弱者が強者への憎悪を価値へと転倒させた歴史的プロセスに行き着く。「道徳の系譜学」とはまさにこの隠された起源を暴く作業です。
第16節の末尾でニーチェはナポレオンを登場させます。ナポレオンは「ローマ対ユダヤという闘争がいまだ続いていることの証左」として提示されるわけですが、ここで注意が必要です。ナポレオンはこの対立軸において、ローマ的なもの(貴族道徳)の最後の偉大な具現者として位置づけられます。フランス革命がユダヤ的ルサンチマンの政治的爆発であったとすれば、ナポレオンはその革命の只中から逆説的に出現した「貴族的・肯定的人間」の閃光です。ナポレオンは単純にローマ的価値の体現者ではありません。彼自身の中に、貴族的なものと平民的なもの、高貴さと卑俗さが葛藤として内在していた、とニーチェは示唆します。つまりナポレオンは純粋な主人道徳の体現者ではなく、ルサンチマンが支配する時代の中で、それに抗う形で出現した不純な偉大さを持つ存在です。この両義性こそがニーチェにとって興味深いのです。
一番最後に「超人的なもの」登場しますが、これはナポレオンの形象を通じて超人的なものへの暗示が与えられるという構造です。ニーチェにとってナポレオンが示唆するのは次のことです。ルサンチマンの道徳が完全に勝利したかに見える歴史の流れの中でも、そこに抗する形で高貴な人間類型が出現しうる。しかしそれは必然ではなく、偶発的な閃光として現れるのです。この「閃光としての偉大さ」という形象が、『ツァラトゥストラ』で展開される超人概念の前駆をなしています。ただし『系譜学』におけるナポレオンはあくまで超人の予示・暗示であり、超人論の本格的展開はここではありません。
第17節
続く第17節は大変短いですが、『善悪の彼岸』が「善きものと悪しきものの彼岸ではない」と強調されています。これは第16節冒頭の区別を念頭に置いています。「『善悪の彼岸』は、善きものと悪しきものの彼岸ではない」というテーゼは、この区別を踏まえると非常に精密な主張になります。『善悪の彼岸』というタイトルの「善悪」は gut/böse の対立、すなわちルサンチマンが作り出した道徳的価値対立のことです。その彼岸へ行くこと、それがニーチェの企図です。
しかし gut/schlecht の区別——貴族道徳における「良い/悪い」——はまったく別の話です。これはルサンチマンとは無関係に、積極的・肯定的に価値を定立する営みから生まれる区別であり、ニーチェはこれを乗り越えようとしているわけではありません。ここには重要な予防線があります。ニーチェは自分の哲学が「すべての価値対立を無効にする虚無主義」だという読みに対して、事前に釘を刺しています。善悪(gut/böse)の彼岸へ行くことは、価値そのものを廃棄することではありません。むしろルサンチマンによって歪められた価値定立の形式を超えることであり、より根源的・肯定的な価値定立——gut/schlecht の論理——への回帰あるいは超克を目指すものだ、ということです。これはニーチェ解釈における決定的な分岐点でもあります。ニーチェを「すべての道徳の破壊者」と読む解釈と、「特定の道徳形式(ルサンチマンの道徳)の批判者」と読む解釈の差がここに凝縮されています。