Xへの私の投稿に対し、哲学youtuberであるネオ高等遊民さんからコメントをいただきました。今回はこの問題について考えてみたいと思います。

最初の私の投稿は以下のようなものでした。

「哲学における専門家と非専門家の役割について考える。普通の人間は、たとえばフーコーを読むのに、翻訳でその著作を読み、フランス語原文で読み、ヘーゲルやハイデガーが引用されていればドイツ語で読み、アリストテレスが引用されていれば古代ギリシャ語で読み、などと出来るわけがない。」

これは最近X上に「プラトンやアリストテレスを読まずして、デリダ(ここには誰の名前を代入しても良い)を理解することなど不可能だ」という言説が溢れていることに対する感想です。仮にこのことが真理だとしても、普通の人間にはそんな時間的余裕も能力もないわけです。そういう「素人」は哲学に手を出してはいけないのかという疑問です。

これに対してネオ高等遊民さんが以下のようなコメントをくださいました。

「専門家は、文献の守り手だと考えるようにしてます。哲学それ自体については、誰もが希求者であるという点で、専門家も非専門家もありえないので。」

ネオさんの「誰もが希求者である」という言葉は、実はソクラテスの「哲学者=知を愛する者」という原義に触れています。「素人でも哲学できる」という主張が単なる民主主義的感情論ではなく、哲学の語源そのものに根拠を持つのです。ネオさんのコメントに対する私のリプライは以下のようなものです。

「「守り手」とはさすがの表現ですね。しかし、文献は専門家だけに閉じられてはならず、また文献を正確に読むということが「権威」となり、素人の解釈はすべて次元が低いものであると考えると、危険であると思います。」

このリプライに対しても、ネオ高等遊民さんから返信をいただきました。

「そうですね。しかし実際は、専門家が素人解釈を次元が低いと考えていようがいまいが、まったくどうでもいいことです。つまり権威なんか、ない。ですから大した権威も持たずに、素人が文献を読めるような状況を作ってくれていることに感謝感激です。」

このネオ高等遊民さんの文章は爽快です。専門家が自分で権威があると思っていても、「そんなものはないんだ」と言い切っておられます。「権威があるかもしれないが、それを気にしないでおこう」ではなく、「権威などないのに、文献の整備をしてくれて、ありがとう」と言っているのです。

しかし、ネオさんの立場はそれほど単純ではありません。専門家を「守り手」と言っていることからも分かるように、専門家の一定の解釈的権威は認めているのです。専門家とは「文献を読む正確さという意味での権威を持ちながら、同時に非専門家の哲学を妨げる権威は持たない」という緊張関係の中にあるのです。

これを念頭に「素人は哲学に手を出してはいけないのか」という最初の疑問に立ち戻ってみましょう。結論から言えば、これは「どのようなレベルで、何を目的として理解したいか」という問いのグラデーションの問題として捉えるのが最も建設的です。

  1. 「原語でなければ正確には理解できない」とする立場(専門家の立場)
    この立場の背景には、「概念と、それを表現する言語(の歴史・文化的背景)は切り離せない」という強い言語観があります。

例えば、ハイデガーの Dasein(現存在)や、カントの An sich(物自体)、あるいは古代ギリシャ哲学の Logos(ロゴス)などは、日本語の特定の単語に一対一で置換することが不可能な多義性を持っています。原語の単語は、その言語圏の日常会話や文学、宗教的背景と結びついた広がり(ネットワーク)を持っており、翻訳された瞬間にその周辺的なニュアンスや「言葉の響き」が削ぎ落とされてしまいます。

「翻訳者は裏切り者である」というイタリアの格言通り、翻訳という行為そのものが、すでに「翻訳者による一つの哲学的な解釈(選択)」を経ています。原著者が意図的に曖昧に残した部分を、翻訳者がどちらかの意味に決定せざるを得ない局面が多々あるため、翻訳で読むことは「原著者の思想」ではなく「翻訳者の解釈した思想」を読んでいることになりかねない、という懸念です。

  1. 「翻訳でもそのエッセンスは理解できる」とする立場(いわゆる「非専門家=素人」の立場)
    一方で、この立場は「哲学の本質は、言語そのものというよりも、その背後にある論理構造や思考のフレームワークにある」と考えます。

特に分析哲学や論理学、メタ倫理学などの分野においては、妥当な推論、命題の構造、倫理的な主張の整合性などが重視されます。これらは傾向としては、普遍的な論理(あるいはそれに準じるもの)として、言語の壁を越えて移植可能であり、エッセンス(核心となる論理やメッセージ)を把握する上では、優れた翻訳であれば十分に事足ります。

すべての哲学を原語(ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、英語など)で読もうとすれば、言語の習得だけで生涯が終わってしまいます。翻訳があるからこそ、私たちは同時代のアメリカの哲学、19世紀のドイツ哲学、古代のギリシャ哲学をマクロな視点で比較・検討し、自分自身の思考を前に進めることができます。

哲学の営みとは、言葉の細部に拘泥することだけでもなければ、大雑把な要約だけで満足することでもありません。私自身としては、「翻訳という補助輪」を大いに活用して思考のスピードを上げつつ、決定的な局面では「原語という錨」を下ろしてじっくり考える。この往復を通じて哲学を探究していきたいです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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