濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』をを鑑賞してきました。(以下多少のネタバレを含みますのでご注意ください。)
【あらすじ】「パリ郊外の介護施設「自由の庭」で施設長を務めるマリー=ルーは、入居者を人間らしくケアすることを理想としながらも、人手不足やスタッフの無理解に悩まされていた。そんな中、日本人の舞台演出家・森崎真理と出会ったマリー=ルーは、がん闘病中の彼女が描く演劇に勇気をもらう。同じ名前の響きを持つ偶然に導かれて交流を始める真理とマリー=ルーだったが、あるとき真理は急に具合が悪くなる。真理の病の進行とともに2人の関係は深まり、互いの魂を通わせ合うようになっていく。」(「映画.com」)
見どころとなる具体的なシーンを3つ挙げます。最初は映画の前半、エリック・ロメールを彷彿とさせる「夜の対話」です。マリー=ルーと森崎真理が、同じ「マリー」という名前の響きを持つ偶然から言葉を交わし、一晩で急速に距離を縮めていくシーンです。固定されたキャメラの中で、フランス語と日本語という異なる言語、そして異なる背景を持つ二人の身体が、互いの声や表情に反応しながら「対話のダイナミズム」を生み出していく前半のハイライトです。(そう言えば、日めくりカレンダーの使い方も、ロメール的な「ある決定的な偶然がいつ、どのように訪れるか(あるいは訪れないか)」という、登場人物たちの期待と焦燥を際立たせる装置」として機能していました。)
次に、映画の中盤における真理が演出する劇中劇「清宮吾朗の一人芝居」です。ここに、自閉スペクトラム症の孫・智樹が予定調和を破って舞台に上がってきます。吾朗がその場で即興的に対応し、ルールを調整しながら舞台を成立させていくプロセスは、単なる演劇を超えて、マリー=ルーが施設で目指す「ユマニチュード(相手の尊厳を支える介護技法)」の思想、すなわち「相手に合わせて自分を変え、場を調整していくこと」と美しくシンクロします。
最後は映画の後半、タイトルの回収と、キャメラを見つめる瞬間、すなわち文字通り、真理が「急に具合が悪くなる」以降の展開です。病状が進行し、それまで構築してきた論理や言葉が崩れそうになる中で、二人が役割(ケアする者/される者、健康な者/病める者)を超えて、互いの生を引き受け合う瞬間が訪れます。濱口作品特有の、登場人物が正面を向いてキャメラ(=画面の向こうの私たち)を凝視するような視線の演出が、この終盤のケアの現場において、より切実な強度を持って迫ってきます。
本作の核心を捉える上で、特に鍵となるセリフが2つあります。
「本当に、不可能なことは可能と、思いますか?」(マリー=ルー)
マリー=ルーが、理想のケア(ユマニチュード)と過酷な現場の現実(人手不足やシステムの壁)との間で葛藤する中で、真理の演劇や存在に向けて発せられる問いです。過剰な要求に壊れそうな社会の中で、いかにして「人間を人間として扱うか」という、本作が内包する構造的な問いを象徴しています。
「魂の分け合い」(森崎真理)
真理の病が深刻化していく中で、二人の結びつきを表現する言葉です。これは単なる同情や、言葉による形式的な共感ではなく、お互いの人生の不条理や有限性を、自らのものとして「分け合う」ことで、原作の精神を最も色濃く受け継いだ、映画の到達点を示す重要なキーワードとなっています。
さて、ここからこの映画に通奏低音のように流れているテーマについて、私の意見を述べたいと思います。私にはこの映画は「言葉や実践を通じて『境界』を消失させていく映画」だと思いました。精神病者と健常者、認知症の老人と介護するもの、資本主義における搾取するものとされるもの、死にゆくものと生きていくものの境界です。この映画が3時間16分をかけて執拗に描き出していたのは、社会やシステムが便宜的に、あるいは暴力的に引きがちな、あらゆる「二項対立の境界」を無効化していくプロセスだったのです。
具体的な映画の描写と重ね合わせてみましょう。
まず、認知症(あるいは精神障害)と「健常」の境界です。劇中劇で智樹が舞台に上がったとき、あるいはマリー=ルーがケアの現場で見せる実践において、そこには「理性的で正常な人間」が「そうではない人間」を管理・誘導するという非対称な関係はありません。智樹の闖入に対して清宮が己のルールを曲げて応じたように、またユマニチュードが「相手の世界にこちらが参入する」実践であるように、そこでは「健常/異常」という境界線自体が、対話のダイナミズムによって完全に融解していました。
次の、搾取するものと、されるものの境界(資本主義の超克)です。近代的なケアの現場は、効率性やマニュアル、コストといった「資本主義的な搾取・管理のロジック」に最も晒されやすい場所です。マリー=ルーが直面する現場の過酷さはまさにそれでした。しかし、彼女たちが言葉を尽くし、身体を触れ合わせる時間において、効率性という名の境界は機能しなくなります。等価交換や生産性では測れない「一回きりのケアの時間」を立ち上げることは、資本主義的な境界線に対する、最も静かで強靭な抵抗になっていたと言えます。
最後に、死にゆくものと、生きていくものの境界です。私たちは通常、「死者/生者」「病者/健康な者」を明確に区別し、前者を「ケアされるだけの弱者」として境界の向こう側に置きがちです。しかし、映画が森崎真理の「急な病状の悪化」以降の描写で提示したのは、残されるマリー=ルーもまた、逝きゆく真理の言葉や魂を自らの内へと引き受け、共に変容していく姿でした。そこに境界はなく、まさに原作の言葉を借りれば、生と死が地続きになった「魂の分け合い」の実践そのものが画面に固定されていました。
濱口監督は、時間(カレンダー)の有限性の中で、演劇的な反復という「実践」を用いながら、人間が他者と真に出会うとき、これらすべての社会的な境界線が消え去ってしまう瞬間を、フィクションの強度をもって証明してみせたのです。
いくつか気になった点をつけ足しておきましょう。濱口監督の作品において、「演劇のセリフの練習」というプロセスは、単なる役作りの描写を超えた特別な意味を持っています。『ドライブ・マイ・カー』では、車内でカセットテープの音声に合わせてセリフを繰り返し練習するシーンは、映画の核となる非常に重要な要素でした。今回の『急に具合が悪くなる』でも、真理が演出する劇中劇の稽古シーンで、その演出術がさらに深化して生かされていました。
なぜ濱口監督はこれほどまでに「セリフの練習」にこだわるのでしょうか。それは、一つには、セリフを感情を抜いて何百回も繰り返すことで、言葉は単なる「記号」から、役者の「身体の一部」へと変わっていくからです。その状態を作ってから初めてカメラの前に立つことで、いざ本番で他者と対峙したときに、嘘のない、真に生々しいリアクションが引き出されるのです。
また、セリフの反復という行為は、「ケアのプロセス」とも深く響き合っています。ユマニチュードでは、相手を人間として尊重するために、言葉のかけ方、見つめ方、触れ方を何度も繰り返し、自らの身体的な技術として馴染ませていくからです。
それにしても、マリー=ルーの日本語や清宮のフランス語はずいぶん流暢でした。彼らの言葉がこれほど深く響いたのは、彼らが言葉を単に「記号」として発しているのではなく、何百回もの反復を経て「自分の肉体の響き」として手に入れているからに他なりません。
本作において、他者の言葉を聴き、それを自らの身体に通して理解し、応答すること。これは、病によって変化していく患者の心身のサインを必死に読み解き、自らの振る舞いを調整していく「ケア」のプロセスそのものです。二人がお互いの言語を流暢に操るあの静かなダイナミズムは、マリー=ルーと真理が、言葉の壁をも超えて「魂を分け合おう」とする切実な意志の現れとして、画面に立ち現れていました。
劇中劇のシーンで圧倒的な存在感を放っていた智樹の姿は、強烈な生々しさがありました。演じた黒崎煌代さんは定型の俳優ですが、濱口監督の現場ならではのアプローチによって、ドキュメンタリーとしか思えないようなあの佇まいが生まれています。ここには濱口監督の恐るべき演出術が隠されています。具体的には「俳優を〈その状態〉に置く演出」と「〈即興〉に見せるための、徹底的な準備」です。
なお、この映画の原作は、宮野真生子さんと磯野真穂さんの『急に具合が悪くなる』(晶文社)です。これは、癌の転移を経験しながら生き抜く哲学者と、医療現場の調査を積み重ねてきた人類学者による、わずか3ヶ月の間に交わされた20通の往復書簡です。濱口監督は、本の中に流れる「他者と出会うこと、そしてその不確実性を引き受けること」という極めて倫理的なエッセンスを完全に掬い上げ、日仏を舞台にしたフィクションのドラマへと組み替えました。
原作の大きなテーマの一つに、「医療や社会システムが用意するマニュアルや予測(『余命○ヶ月』といった枠組み)が、いかに個人の生の現実をこぼれ落としてしまうか」という問題提起があります。そこで「自分のルールを曲げて相手に合わせる」という、原作が重視した臨床的・実践的な態度が映画のドラマへと見事に翻訳されています。
「急に具合が悪くなる」という言葉は、人間がコントロールできない「身体の不条理」を指しています。状況が急変したとき、私たちは「被害者」や「ただケアされる弱者」になるのではなく、その激変する現実の中で、なおも他者と新しい関係を構築し始めます。この「危うさの中での生の肯定」こそ、監督が原作から掴み取った最も強靭なエッセンスです。
書簡のやり取りは、死を前にした感傷的な慰め合いでは決してありません。お互いの学問的知性と人生のすべてを賭けて、激しく、かつ真摯に言葉をぶつけ合う対話でした。映画版が3時間16分という長さを必要としたのも、まさにこの「安易な共感に逃げず、他者の言葉を真剣に聴き、自らを変容させていくプロセス」そのものを観客に体験させるためです。だからこそ、二人の「マリ」の会話は、国籍や言語の境界をも融かしていく強度を持つに至りました。