ドゥルーズ『差異と反復』序章の最初で「反復」と「一般性」が区別されています。ドゥルーズの狙いは込み入っていて、「反復は同一物の繰り返しではない」という命題そのものが、実は「一般性」批判と表裏一体になっている、というのが序文冒頭の骨格です。
ドゥルーズはまず、反復と一般性は「二つの非常に異なる事柄」だと言います。一般性(généralité)には二つの秩序があります。
質的秩序=類似(ressemblance):自然法則のように、個物が「同種のもの」として互いに置き換え可能である秩序。
量的秩序=等価性(équivalence):交換・商業のように、個物が量的に等価なものとして代替可能である秩序。
いずれも共通するのは、個物が概念のもとで互いに交換可能(échangeable)であるということです。一般性の体制のもとでは、ある個物を別の個物に置き換えても「同じ概念の事例」である限り本質的な損失はない。
反復が関わるのは、まさに交換不可能なもの、代替不可能なもの(irremplaçable)です。ドゥルーズは、反復に対応するふるまいは「交換する(échanger)」ことではなく「贈る・返す(donner, rendre)」ことだ、という言い方をします。祝祭(fête)における反復や、単独的な行為の反復がその例です。
もし反復が単に「同一物のトークンが複数回生じること」だとすれば、それは一般性(概念のもとでの複数事例)と区別がつかなくなってしまう。ですから反復が一般性から区別されうるためには、反復は最初から概念なしに(sans concept)、単独的なものそのものの回帰として理解されねばならない。反復されるのは「同じであるもの」ではなく、まさに同じであることができない何か、代わりが利かない何かなのです。
ここでドゥルーズがキルケゴールの「反復」対プラトン的「想起(réminiscence)」の対比を持ち出すのも同じ理由からです。想起=一般性の秩序では、個別の経験は永遠のイデアという普遍のもとに回収され、いわば「代替可能な事例」として処理される。これに対し反復は未来へ向かう単独的な行為であり、一般化・概念化に抵抗するのです。
この序文冒頭の区別は、のちに「裸の反復(répétition nue)」と「衣を着た反復(répétition vêtue/déguisée)」の区別、さらには永遠回帰を「同一のものの回帰」としてではなく「差異そのものの回帰」として読み直す議論へとつながっていきます。つまり反復は最終的に、同一性ではなく差異を根拠づける原理として位置づけ直される――これが『差異と反復』全体の企図です。