『差異と反復』序章では、「反復を、道徳法則に対置すること、それによって倫理学を失効させること」が語られています。これはいったいどういうことでしょうか。
この一節は、『差異と反復』序論の中でもとりわけ重要な結節点です。この論点は「反復、自然の法則と道徳法則」という見出しのもとに置かれており、位置づけとしては前回確認した「反復と一般性の区別」のすぐ後に続く議論です。
それにしても、なぜ道徳法則が問題になるのでしょうか。
前回確認したように、一般性には「自然法則」的秩序(類似)と「等価性」的秩序(交換)の二つがありました。ドゥルーズはここでさらに一般性のもう一つの姿として道徳法則を導入します。これは重要です。というのも、カント的な道徳法則――「あなたの意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法――は、まさに一般性の最も純粋な形態だからです。道徳法則が要求するのは、行為する主体が誰であっても構わない、つまり行為者の代替可能性・置換可能性です。私が従う格率は、私が誰であるかに依存せず、理性的行為者一般に妥当するのでなければならない。これは前回見た「概念のもとでの個物の交換可能性」の倫理版にほかなりません。
反復はこの構造そのものを転覆します。反復が関わるのは、代替不可能なもの、単独的なものでした。したがって反復を道徳法則に対置するとは、「普遍化可能性」という道徳法則の作動原理そのものが機能しない領域――誰も代わることのできない単独の行為、単独の実存――を提示することです。ここでドゥルーズがキルケゴール、ニーチェ、ペギーを並べて「反復の哲学プログラム」と呼ぶのは偶然ではありません。
キルケゴールにおいては、『恐れとおののき』のアブラハムが典型です。イサク奉献の命令は、殺人を禁じる普遍的・倫理的法(道徳法則)を踏み越える単独者の行為です。キルケゴールはこれを「倫理的なものの目的論的停止(suspension téléologique de l’éthique)」と呼びました。まさに「倫理学を失効させる」という表現はこの語に呼応しています。
ニーチェにおいて、永遠回帰は道徳的判断(善悪)を超えたところで作動する選別の原理です。「これをもう一度」という反復への意志は、行為が普遍化可能かどうかという基準では測れません。
ペギーにおける歴史における単独の出来事(フランス革命など)の反復は、一般法則には還元できない反復のモデルとしてドゥルーズが好んで引く例です。
ここで重要なのは、ドゥルーズは道徳一般を否定しているのではなく、道徳を「法」「普遍化可能な命法」というモデルで捉える立場(カント的形式主義)を無効化しようとしている、という点です。反復=単独性の次元を認めるなら、倫理は「誰にでも妥当する規則」の体系としては完結できない。むしろ単独者と単独者の出会い、代替不可能な状況における選択が、道徳法則の埒外に――あるいはそれ以前に――存在することになります。
この論点は、バーナード・ウィリアムズの立場と響き合うところがあります。ウィリアムズはカント主義的な非人称的道徳(impartial morality)が、行為者にとっての「これは自分の人生である」という一人称的な単独性(彼が”one thought too many”と呼んだような、道徳的計算に還元されない個人的関与)を切り捨ててしまうと批判しました。ドゥルーズが道徳法則の「一般性」に反復の「単独性」を対置する身振りは、構造としてはこれと近い問題意識――普遍主義的倫理学が単独的な実存を扱いきれないという診断――を共有していると言えるでしょう。ただしドゥルーズの場合、その帰結はウィリアムズのような「徳と性格」への回帰ではなく、倫理学そのものを超えた存在論(差異の存在論)への移行という、よりラディカルな方向に向かいます。
ドゥルーズの考えは「道徳相対主義」と響き合うのでしょうか。この問いは正確な区別が必要なところです。結論から言うと、表面的には響き合って見えますが、精査すると相対主義とは異なる立場というのが妥当な評価だと思います。
道徳法則(普遍化可能な命法)を批判し、単独性・特異性の側に立つという身振りは、「普遍的に妥当する道徳的真理はない」という相対主義の主張と隣接して見えます。実際、ポスト構造主義全般に対する定番の批判(ハーバーマスなどからの)は、まさに「普遍的規範を解体すれば、あとに残るのは各人各様の恣意的な価値判断でしかない」というものでした。
しかしドゥルーズ自身の枠組みではそう単純ではありません。ここで鍵になるのが、ドゥルーズがスピノザ論で導入する「道徳(morale)」と「倫理(éthique)」の区別です。これはSpinoza: philosophie pratique(PUF、初版1970年、増補版1981年)で明確化される語彙で、『差異と反復』での「道徳法則の失効」という論点の伏線が、後にこの形で理論化されると考えると見通しがよくなります。
道徳(morale)とは、超越的な法、審判、善悪(Bien/Mal)の体系です。行為を外部の規則に照らして裁きます。倫理(éthique)は内在的な評価です。ある存在様態(mode d’existence)が、その活動能力(puissance d’agir)を増大させるか減少させるかを基準にした良さ・悪さ(bon/mauvais)を指します。
重要なのは、後者は「各人が自分の価値観を持てばよい」という相対主義とは違うということです。ある存在様態がその力能を増大させるか減少させるかは、恣意的な選好の問題ではなく、その存在の構成(身体・情動の組成)に即した事実的な問いとして扱われます。スピノザにおいて「良い」とは「その個体にとって力能を増大させる出会い」であって、単なる主観的好悪ではありません。
さらに踏み込むと、ドゥルーズ的な観点からすれば、相対主義そのものが実は「一般性」の論理を脱していないとも言えます。「各文化・各個人にはそれぞれの真理がある」という相対主義の主張は、判断の単位を普遍(全人類)から集団や個人へと縮小しただけで、その内部では依然として「置換可能性・等価性」の論理(その枠内では誰もが同じ基準に従う)を保持しています。真に単独的なもの――反復が指し示す、代替不可能な出来事や実存――は、集団相対主義にも個人相対主義にも回収されません。単独性は「相対的な一般性」ですらないのです。
これはニーチェのパースペクティヴィズムがしばしば相対主義と混同されるが実は異なる、という論争ともパラレルです(Maudemarie ClarkやBrian Leiterらの解釈がこの区別を強調します)。ニーチェは道徳の系譜学によって既存の道徳(特にルサンチマンに由来する奴隷道徳)を脱自然化しますが、そこには「生の強化・力への意志の高揚」という、相対主義には還元できない内在的な評価基準が働いています。「善悪の彼岸」は「何でもあり」ではなく、別の基準系への移行です。ドゥルーズの反復=単独性の論理も、この意味でニーチェ的です。
批判者たち(ハーバーマス的立場や、一部の分析系倫理学者)は、この「内在的評価基準」自体が結局は形而上学的に負荷のかかった(スピノザ的一元論やニーチェ的生の哲学を前提とする)ものであり、それを共有しない者にとっては結局「力の増大」という一つの相対的な物差しに過ぎないのではないか、と批判することがあります。ドゥルーズ擁護派はこれに対し、内在的評価は超越的審級を要求しない点で「客観的でも相対的でもない第三の道」だと主張しますが、この応答が完全に相対主義批判を免れているかは、メタ倫理学的にはなお係争的な点だと思います。
構造的には、ドゥルーズは相対主義よりもある種の自然主義的・内在主義的な価値評価論(スピノザ的存在論に基づく力能の増減としての良し悪し)に近く、これは分析系メタ倫理学の分類で言えば相対主義(relativism)よりもむしろ自然主義(naturalism)や特殊主義(particularism、ジョナサン・ダンシーの議論との親和性)に近いポジションだと整理するのが、最も精確です。ただし「普遍的道徳法則の否定」という一点だけを取り出せば、相対主義と同じ結論に着地しているように見えるため、この混同が生じやすいのです。