「ドゥルーズ『差異と反復』「序論」を読む(その3)」

今回は『差異と反復』序章の「反復と一般性 概念の視点からする第三の区別」について考えてみたいと思います。ちなみに、第一の区別は「行動の視点」による区別、第二の区別は「法則の視点」による区別でした。

ドゥルーズはこの第三の区別において、「概念の視点」を「表象=再現前化(représentation)の視点」と言い換えています。ここで「概念」とは表象の体制における概念、つまり同一性を本質とし、事物をおのれのもとに包摂することで媒介する概念のことです。ただし、この言い換えが何を含意しているかを掘り下げておく価値があります。単なる同義反復ではないからです。

表象における概念の論理について整理してみます。表象=再現前化の体制では、概念は原理的に無限の内包(compréhension)をもちうるとされます。ライプニッツがその極限的なモデルで、規定を無限に積み重ねていけば、概念は種差を経て最終的に個体そのものにまで到達する――一つの事物には一つの概念が対応する(不可識別者同一の原理)。この「概念1:事物1」という比率が成立している限り、事物間の差異はすべて概念の内部に、概念的差異として書き込まれます。ここには反復の入り込む余地がありません。

他方、概念の内包が実際にはどこかで有限にとどまるとき、一つの概念のもとに複数の事物が対応することになります。表象の体制はこの事態を、さしあたり一般性の秩序として処理します。すなわち、個々の事例を概念のもとで等価ないし類似のものとみなし、互いに交換・代置可能なものとして扱うのです。差異はここでも、概念の同一性を基準にして飼い慣らされています。ドゥルーズが照準を合わせるのは、この処理からこぼれ落ちるもの――等価な事例への置き換えがきかない「二つある」という事実そのもの――です。

ここで、「内包」が何を指すのかそもそもさっぱり分からない人のために、まとめてみます。内包とは「その概念が含んでいる特徴のリスト」のことです。たとえば「三角形」という概念を考えます。三角形と呼ばれるためには、「図形である」「直線で囲まれている」「辺が三本ある」といった条件を満たさなければなりません。この条件・特徴の集まりが「三角形」という概念の内包です。いわば、概念の中身、意味の内訳です。これと対になるのが外延で、こちらは「その概念が当てはまる事物の範囲」です。「三角形」の外延は、世の中のあらゆる三角形(この紙に描かれた三角形、あの標識の三角形……)ということになります。

ここに面白い関係があります。特徴を付け加えていく(内包を増やす)と、条件が厳しくなるので、当てはまるものはどんどん絞られていきます。
「動物」→ 膨大な数のものが当てはまる
「動物で、四本足」→ 少し絞られる
「動物で、四本足で、犬」→ さらに絞られる
「動物で、四本足で、犬で、ヨークシャーテリアで、2021年生まれで、横浜の〇〇家に住んでいて……」→ 最後には、世界にただ一匹の個体だけが当てはまる

つまり、内包(特徴のリスト)を無限に細かくしていけば、理屈の上では、概念は最終的に「この一匹」「この一個」までたどり着けるはずです。一つの事物に一つの概念がぴったり対応する、という状態です。『差異と反復』のこの箇所でドゥルーズが問題にしているのは、まさにこの「はず」です。概念が特徴を無限に書き込めるなら、どんな二つの事物も、どこかの特徴で区別できることになります(ライプニッツは実際に「まったく同じ二枚の葉は存在しない」と考えました)。区別=差異はすべて概念の中に収まるのです。

ところが、特徴の書き込みがどこかで止まってしまうと、同じ概念に複数のものが対応してしまう。「概念の上ではまったく区別がつかないのに、現に二つある」――そっくりな二滴の水、同じ単語の二回目の発声、印刷された同じ文字。ドゥルーズはこれこそが「反復」だと言うわけです。これをドゥルーズの用語で言い直せば、概念の規定作用が阻止・封鎖(blocage)される、ということです。数的には区別されるのに概念的には区別されない――この状況を表象の側から定義したのが、「反復とは概念なき差異(différence sans concept)である」という有名な唯名的定義です。ドゥルーズは封鎖の三つの様態を挙げます。

第一に人為的(論理的)封鎖。語=名目的概念は定義上有限の内包しかもたないため、同じ語が複数の事物を指し、また語そのものが反復される(押韻や畳句がその範例)。第二に自然の封鎖。自然の概念は「即自的には」無限の内包をもつが、「対自的」でない――自然には記憶も自己意識もないため、概念はおのれを想起できず、自然は反復する(裸の反復、物質的反復)。第三に自由の概念の封鎖。抑圧によって表象が意識から締め出されるとき、人は想起できないものを行動において反復する(フロイトの反復強迫、着衣の反復)。語・自然・無意識という三領域に、それぞれ固有の反復が対応するわけです。

ここで思い出しておきたいのがカントです。ライプニッツの不可識別者同一の原理に対して、カントは対称的な対象の逆説――左手と右手は概念的な規定がすべて同一なのに、決して重ね合わせられない――を突きつけました。概念的には区別できないのに現実には二つある、という事態は、概念の欠陥である以前に、空間と時間という外的な規定の次元が概念に還元されないことの証言でもあります。とはいえ、序章のこの段階では、「概念なき差異」という定義そのものは依然として否定的・唯名的なものにとどまっています。ここが序章の読解で最も重要な点だと思います。この定義は、反復を概念の欠陥・不足によって説明しています。

つまり表象の体制は、反復を積極的に思考できず、概念の同一性を基準にした「欠如による差異」としてしか捉えられない。ドゥルーズの狙いは、この否定的定義を反転させることです。

最も鮮明なのはフロイトに対する反転です。人は抑圧するから反復するのではない、反復するからこそ抑圧するのだ、とドゥルーズは述べます。封鎖が反復を説明するのではなく、反復の積極的な力能(puissance)こそが封鎖の理由なのです。この積極的な反復(着衣の反復、死の本能に関わる反復)の解明が、第二章「それ自身へ向かう反復」の課題になります。

最後に、第一章への橋渡しとして。表象の体制において、差異は「概念的差異」(概念の内部に書き込まれた差異)に還元され、反復は「概念なき差異」(概念の外に落ちた差異)に還元される。前者は差異を概念の同一性に従属させて「差異それ自体」を取り逃がし、後者は反復を概念の欠如態として「それ自身へ向かう反復」を取り逃がす。つまり第三の区別は、行動・法則の視点と並ぶ単なる三番目の観点ではなく、表象批判という本書全体の課題――概念の同一性・判断の類比・述語の対立・知覚の類似という四重の軛から差異と反復を解放すること――への入口になっている、と読めます。

要するに、内包という考え方は「概念は事物をどこまで捉えきれるか」という問いの土台であり、ドゥルーズはその限界点に反復を見出している、ということになります。概念が事物を捉えきるとき差異は概念的差異に、捉えきれないとき一般性の交換可能性か「概念なき差異」に――表象の体制がもつ選択肢はこの範囲に尽きており、だからこそ、その外で差異と反復を積極的に思考することが本書の課題になるのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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