今回は、序論「「死の本能」の諸機能―差異との関係における、そしてひとつの定立的な原理を要請するものとしての、反復(自由の諸概念の例)」を扱います。ここは序論の心臓部のひとつで、第二章の「時間の第三の総合」への伏線にもなっている部分です。
ドゥルーズによれば、フロイトは「抑圧するから反復する」という否定的な図式には満足しませんでした。しかし、そこでなぜ「死の本能」が出てくるのでしょうか。そこを解明していきたいと思います。
フロイトは「抑圧するから反復する」という否定的図式の何が不満だったのでしょうか。フロイトの初期の枠組みでは、反復強迫はこう説明されます。患者は過去の出来事を想起できない(抑圧されている)からこそ、それを行動において反復してしまう(想起の代わりに行動化する)。転移もその一種です。この図式では、反復は想起の失敗の帰結、つまり記憶の欠損・障害という「欠如」から派生する二次的な現象にすぎません。抑圧という障壁(blocage)が取り除かれれば、反復は想起へと解消されるはずだ、というわけです。
しかしこの説明には難点があります。第一に、臨床的事実として、反復はそれ自身の一貫性と力をもっており、単なる「想起の代用品」には見えない。しかもフロイト自身、治療において転移=反復を積極的に利用します。ドゥルーズが言うように、反復が私たちを病気にするのなら、私たちを治すのもまた反復なのです。反復が単なる欠陥の産物なら、それが治癒の媒体になることは説明できません。
第二に、より決定的なのは『快原理の彼岸』(1920)でフロイト自身が直面した事実群です。戦争神経症者は外傷場面を夢で反復する。子どもは母の不在という不快な経験を「いない・いた」遊び(Fort-Da)で反復する。快原理が心的生活の最高原理なら、なぜ不快なものが執拗に回帰するのか。反復は快原理に従属していない――むしろ快原理よりも深いところで働いている。とすれば、反復は何か別のもの(抑圧、快)から否定的に導出されるのではなく、それ自身の原理を必要とする。これがドゥルーズの言う「ひとつの定立的な原理(un principe positif)を要請する」ということです。
フロイトがその定立的原理として持ち出したのが死の本能(Todestrieb)です。ポイントは、死の本能が「破壊衝動や攻撃性の観察から」導入されたのではなく、反復強迫という事実そのものから、その超越論的な根拠として要請された、ということです。快原理は心的生活を統べる経験的な原理ですが、「なぜ快が原理たりうるのか」「快原理の適用そのものを可能にしている条件は何か」は快原理自身では説明できません。フロイトが「彼岸(jenseits)」という語で探り当てようとしたのは、快原理の例外ではなく、快原理の根拠です。反復はその根拠の側に属する。だから反復を基礎づける審級として、快の彼岸にある本能=死の本能が定立されたのです。
ここでドゥルーズはフロイトの洞察を高く評価します。反復を欠如(抑圧・忘却)から説明する否定的図式を捨てて、反復に固有の肯定的・定立的な原理を与えようとした点で、フロイトは正しい方向に踏み出した、と。
そのうえでドゥルーズは因果の向きを逆転させます。私は抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのであり、反復するから忘却するのだ、と。反復こそが第一次的な力であり、抑圧はその帰結にすぎません。これと対になるのが偽装(déguisement)についての転倒です。抑圧が働くから、反復されるものが偽装されて(歪められて)現れるのではない。偽装は反復にとって二次的なものではなく、反復の内部に、反復の構成要素として属している。反復されるものは仮面の下に隠れた「素顔の原本」ではなく、仮面が覆っているのはさらに別の仮面です。幼児期の「原光景」でさえ、実際に起こった同一的な出来事というより、それ自身すでに偽装されたもの、潜在的なものです。だからドゥルーズは「仮面こそ反復の真の主体である」と言うのです。反復は同一的なものの回帰ではなく、偽装や置き換えを通じてしか作動しない、徹頭徹尾シンボリックな運動だということになります。
ではドゥルーズはフロイトの死の本能をそのまま受け入れたのか。ここが本節のもうひとつの要点で、答えは否です。フロイトは死の本能を物質的モデルで理解しました。すなわち、生命体が無機的・無生命的状態へと回帰しようとする傾向、「あらゆる生命の目標は死である」という生物学的図式です。しかしこのモデルでは、反復は結局「裸の反復(répétition nue)」、つまり差異を打ち消して同一の状態(無機的物質)へ戻ろうとする、同一性のモデルに従属した反復になってしまいます。これでは、せっかく反復に定立的原理を与えながら、その原理を最も貧しい反復像――物質的な、むき出しの、同じものの反復――で考えてしまったことになる。
ドゥルーズの主張はこうです。死の本能が反復の超越論的原理であるなら、それは裸の反復ではなく着衣の反復(répétition vêtue)、つまり偽装と仮面を本質的な構成要素とする反復の原理として理解されなければならない。死は無機的物質への回帰ではなく、むしろ同一性の形式(自我の同一性、事物の同一性)が解体されて、差異がそのものとして解放される状態に関わる――この線が第二章で「タナトスと時間の空虚な形式(第三の総合)」として展開されることになります。序論のこの箇所は、その予告編として読めます。
流れを一本にまとめると、(1) 「抑圧するから反復する」は反復を欠如から説明する否定的図式であり、反復の自立性(不快の反復、治癒における反復の働き)を説明できない。(2) だからフロイトは反復に固有の定立的原理を求め、快原理の根拠として死の本能を定立した――ここまでは正しい。(3) しかしフロイトはその死の本能を無機物への回帰という物質的・裸の反復のモデルで考えてしまった。(4) ドゥルーズは順序を転倒し(反復が第一次的で抑圧はその帰結)、偽装を反復に内在的なものとみなすことで、死の本能を「差異と偽装を原理とする反復」の超越論的根拠として読み替える――これが小見出しの「差異との関係における、そしてひとつの定立的な原理を要請するものとしての、反復」の意味です。
この箇所の後半に「象徴のレヴェルと偽装によって、差異は反復のなかに含まれている」という記述が出てきます。この一文は、直前の「偽装は反復に二次的に付け加わるのではない」という議論の帰結を、差異の側から言い直したものです。ポイントは、差異が反復の「外」にあるのではなく「中」にある、という位置づけの転換です。
常識的な反復のモデル(ドゥルーズの言う「裸の反復」)では、反復とは同一のものの回帰です。A، A، A……と同じ要素が繰り返される。このモデルで差異はどこにあるかというと、反復の外にしかありません。つまり、(a) 各回のあいだの数的・時間的な差異(一回目と二回目は「別の回」だという外的な差異)、あるいは (b) 反復されるものと反復されないものとの差異。いずれにせよ、反復そのものは「差異なき同一性」として定義され、差異は反復に対して外在的・否定的なもの(反復から差し引かれるもの、反復が打ち消すもの)にとどまります。「抑圧するから反復する」の図式もこの発想の上にあります。抑圧された同一の内容Xがあり、それが偽装されてX’、X”……として回帰する。偽装=差異は、本体Xの上にかぶせられた外的な覆いにすぎず、覆いを剥げば同一のXが出てくるはずだ、と。
しかし、ドゥルーズ(そしてドゥルーズが読むフロイト)によれば、仮面の下にあるのはさらに別の仮面であって、「素顔の原本X」は存在しません。転移において患者が反復する愛は、母への愛の偽装された再演ではない――母自身がすでにひとつの仮面であり、最終項ではないのです。原光景でさえ、実際に生起した同一的な出来事というより、それ自身すでに潜在的で偽装されたものでした。
とすると、反復されている「もの」は、偽装を剥ぎ取った後に残る同一的な核ではありえない。反復されるものは、偽装され置き換えられたものとしてしか存在しない。偽装(déguisement)と置き換え(déplacement)は、反復の上にかぶさる外皮ではなく、反復がそれによって成り立っている当のメカニズムです。そして偽装・置き換えとは、まさに「同じでないこと」、つまり差異にほかなりません。だから、差異は反復の外(各回のあいだ、あるいは本体と覆いのあいだ)にあるのではなく、反復の内部に、反復の構成要素として「含まれている(comprise)」――これがこの一文の骨子です。反復とは差異を運ぶ運動、差異を偽装のかたちで内蔵した運動だ、ということです。
では「象徴」はどう関わるのか。反復が同一物の物理的再現ではないとすれば、反復は何と何のあいだで起こっているのか。ドゥルーズの答えは、反復は象徴的な諸要素のあいだで起こる、というものです。
フロイト自身の例が一番わかりやすい。Fort-Da 遊びで、子どもは母の不在という出来事をそのまま再現しているのではありません。糸巻きを投げて(fort=いない)手繰り寄せる(da=いた)。ここで糸巻きは母を象徴的に代理しています。反復は「現実の母の不在」と「現実の母の不在」のあいだで起こっているのではなく、象徴のレヴェルで、代理物=シンボルを介して起こっている。しかもこの象徴的反復は、元の経験の同一的な複製ではありません。受動的に被った不在が、能動的に演出される不在へと転換されている。つまりこの反復は、内容の同一性ではなく、差異(受動→能動、母→糸巻きという置き換え)を生産し担うことをその働きの核心としています。子どもが反復するのは「同じこと」ではなく、置き換えと偽装をくぐらせた象徴的な再演であり、その置き換えの運動こそが反復の実質なのです。
夢や症状も同じ構造です。夢は昼の残滓や幼児期の材料を「そのまま」反復せず、圧縮と置き換え(まさに象徴化の作業)を通じて反復する。症状は葛藤を身体の上に象徴的に反復する。精神分析が発見した反復とは、最初から最後まで象徴の次元で作動する反復であって、そこでは偽装・置き換え=差異が反復の内的な原動力になっています。
こうして図式が逆転します。裸の反復のモデルでは「同一のものが反復され、差異は表面的な偽装」でした。転倒後は、「差異(偽装・置き換えの運動)こそが反復の内実であり、同一に見えるものの方が、その運動の上に張られた表面的な効果」になります。反復のなかで回帰しているのは同一者ではなく、差異それ自身が、そのつど新しい仮面をまとって回帰している。だからこそ反復は創造的でありうるし(治癒における転移の働き)、だからこそ反復の超越論的原理である死の本能は、無機物という「同一状態への回帰」ではなく、偽装と差異を本質とする着衣の反復の原理として読み替えられねばならない――前回の議論とここで接続します。
一文に圧縮すれば、こうなります。反復されるものは象徴的な代理と偽装を通じてしか回帰しないのだから、偽装=差異は反復の外的な覆いではなく反復の内的な構成要素であり、その意味で「差異は反復のなかに含まれている」。 反復は差異を消去する運動ではなく、差異を内に含み、差異によって作動する運動だ、ということです。