「ドゥルーズ『差異と反復』「序論」を読む(その5)」

『差異と反復』の序論を引き続き読んでいきます。今回は「二つの反復―概念の同一性と否定的条件による反復、差異による、そして《理念(イデア)》における過剰による反復(自然的諸概念と名目的諸概念の例)」を扱います。

まず最初に、ドゥルーズは「概念の同一性と否定的条件による反復」ではない「差異による反復」を主張していると理解しても良いのでしょうか?結論から言いますと、その理解は大筋で正しいと思われますが、ドゥルーズの議論の構えをより正確に押さえるために、いくつか補助線を引いておくのがよいと思います。

まず、「否定的条件による説明」が何を意味するかを復習します。序論のこの箇所でドゥルーズが標的にしているのは、表象=再現前化(représentation)の枠内での反復の説明です。その枠内では、反復は「概念なき差異(différence sans concept)」として定義されます。つまり、概念上はまったく同一であるはずのものが、それにもかかわらず数的に複数存在する――この事態を説明するには、概念の側に何らかの「阻止」「封鎖(blocage)」が働いていると考えるしかない。財津訳で「概念の自然的封鎖」などと訳される事態です。名目的概念なら内包が有限であるがゆえに(語は定義し尽くされてしまうので、同じ語が反復されるしかない)、自然的概念なら概念が「記憶なき」まま事物のうちに疎外されているがゆえに(自然は自らが為すことを「知らない」ので反復する)、概念の力が途中で尽きる。その欠如・不足という否定的条件によって反復が生じる、という説明の型です。

これに対してドゥルーズが主張するのは、反復の十分な理由(raison suffisante)は概念の欠如にではなく、むしろ理念(Idée)における過剰(excès)に求められるべきだ、ということです。名目的概念の例で言えば、詩における韻や反復は、語の内包が貧しいから仕方なく生じるのではなく、詩的理念が言語的概念を溢れ出るからこそ生じる。つまり反復は「概念が小さすぎる」ことの帰結ではなく「理念が大きすぎる」ことの表現である――ここで否定から肯定への価値転換が起きています。反復を担うのは同一性の残余ではなく、差異それ自体の積極的な力だ、というのが「差異による反復」です。

注意すべきは、ドゥルーズは第一の反復(概念の同一性を前提とし、否定的に説明される反復)を単に「誤り」として棄却しているのではない、ということです。序論全体の構図では、これは「裸の反復」「物質的・水平的な反復」として現に存在する表層の効果です。ドゥルーズの主張は、この裸の反復そのものが、より深い「着衣の反復」――差異を内包し、理念の過剰に由来する精神的・垂直的な反復――を前提とし、その外的な包被・結果にすぎない、という基礎づけ関係の転倒にあります。つまり「AではなくB」というより、「Aとして現れているものの十分な理由はBである」という構造です。この点を落とすと、序論後半(および第二章)で二つの反復が共存しつつ一方が他方の「理由」であるとされる議論と接続しにくくなります。

《理念イデア》における過剰による反復(自然的諸概念と名目的諸概念の例)ですが、ここでの理念(イデア)とは何を意味しているでしょうか?この問いは重要です。というのも、序論のこの箇所で「理念(Idée)」という語は、ほとんど予告なしに、いわば手形のように先取りして使われており、その本格的な内実は第四章「差異の理念的総合」まで展開されないからです。序論だけを読むと「概念」との対比で漠然と使われているように見えますが、ドゥルーズの用語法としてはかなり厳密な意味が込められています。

財津訳が「理念」に「イデア」とルビを振るため、プラトン的イデアを連想しやすいのですが、これは意図的にミスリーディングな重ね書きです。プラトンのイデアは自己同一的な範型(モデル)であり、感性的なものはその写しとして反復=分有する、という構図です。しかしドゥルーズの理念は同一性の審級ではまったくなく、むしろ差異の審級です。プラトン主義の転倒を掲げる本書で、あえて「イデア」の語を差異の側に奪還して使っている、と読むべきです。

ドゥルーズが直接に踏まえているのはカントです。カントにおいて理念(Idee)とは、悟性の概念(カテゴリー)と違って、可能的経験のうちに対応する対象を持たない理性の概念であり、本性上「問題的(problematisch)」なものでした。つまり理念とは、いかなる経験的所与によっても満たされ尽くさない、概念を構造的に超過する審級です。ドゥルーズはこの「理念=問題」というカントの洞察を継承しつつ、二点で改鋳します。第一に、カントが理念を統制的使用に限定し、構成的使用を仮象としたのに対し、ドゥルーズは理念を現実的なものの発生(顕在化)を担う十全に積極的・構成的な審級とする。第二に、カントが問題をなお解=命題のモデルから考えたのに対し、ドゥルーズは問題をいかなる解によっても汲み尽くされない客観的な実在性として考える。序論の「理念における過剰」という言い方は、この「概念(悟性・表象の秩序)に対する理念(問題の秩序)の本性上の超過」を指しています。

第四章での完全な規定を先取りすれば、理念とは、微分的=差異的な多様体(multiplicité différentielle)です。すなわち、(一)それ自体では規定されていない諸要素(dx のような微分的要素)、(二)それら要素間の相互規定としての微分的関係(dy/dx)、(三)その関係に対応する特異点(singularités)の分配――この三つの契機からなる構造であり、現働的ではないが完全に実在的な「潜在的なもの」です。重要なのは、これが概念とはカテゴリーが違うということです。概念は表象に属し、同一性の形式のもとで諸事例を包摂します(内包と外延、一般性の秩序)。理念は表象以下=以前の審級であり、同一性ではなく差異的関係と特異性によって定義され、その「解」である現働的な事物・概念のうちに顕在化しながら、決してそれらに汲み尽くされない。前回までに確認された用語で言えば、理念は différentiation(t の微分化)の審級であり、その現働化が différenciation(c の分化)です。

では、なぜ理念の「過剰」が反復を生むのでしょうか?ここが序論の当該箇所の要点です。名目的概念の例で考えると分かりやすい。語の概念(名目的定義)は内包が有限です。表象の枠内では、だからこそ語は反復される(概念が尽きるから同じ語を繰り返すしかない)と否定的に説明される。しかしドゥルーズの説明では逆で、詩において語が反復されるのは、詩的理念――言語という素材のうちで解かれるべき問題――が、語の概念的同一性によっては一度で言い切れないからです。問題はどの解によっても汲み尽くされないがゆえに、各々の反復は同じものの再現ではなく、汲み尽くせない過剰の新たな顕在化になる。反復とは、表象の水準に翻訳不可能な理念=問題の過剰が、表象の水準に現れるときの現れ方だ、ということです。だからこそ反復される語は、有限な内包に縛られた一般的な語ではなく、いわば無際限の内包を帯びた特異なもの、代替不可能なものとして機能する――序論冒頭の「交換不可能なもの、代替不可能なものだけが反復される」「反復は特異なものの普遍性である」という規定と、ここで環が閉じます。

自然的概念についても構造は同じです。表象の枠内では、自然の反復(たとえば原子のような要素的反復)は、概念が「対自的に存在しない」まま事物のうちに疎外され、記憶を欠いているという欠如によって説明される。しかしドゥルーズにとって、この物質的で裸の反復は表層の効果にすぎず、その十全な理由は、より深い次元での差異を含んだ反復――第二章で受動的総合(観照=収縮)として、さらに理念の顕在化として展開されるもの――にあります。自然の反復もまた、自然のうちで執拗に「問い続ける」問題的審級の表現として読み直されるわけです。

序論のこの段階では、以上の内実はほとんど圧縮された形でしか示されておらず、「理念」はさしあたり「概念的同一性に対して本性上過剰であるような、反復の積極的な理由」というプレースホルダーとして機能しています。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

“「ドゥルーズ『差異と反復』「序論」を読む(その5)」” に1件のフィードバックがあります

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です