「〈ことば〉について考える (第1回):「お世話になっております」と「長文失礼します」という定型句が意味するもの」

よく業務の電話で使われる「いつもお世話になっております」という表現は、本当に世話になっているかどうかに関係なく使われています。またSNSなどで「長文失礼します」という表現がありますが、その文が長文であることが必然である場合、なぜ失礼なのかわかりません。この二つの表現は、どちらも「字義通りの意味」と「実際の機能」が乖離している点で共通していますが、少し性格は違います。

「いつもお世話になっております」は、事実を記述しているのではなく、「私たちは継続的な関係の中にいる」という関係の枠組みそのものを宣言し、設定する働きをしています。「お世話になっているかどうか」の真偽を問うのは、「おはようございます」に対して「まだ朝とは言えない時刻だ」と反論するのと同種の「問いの立て方そのものの間違い」です。それでも、初めて電話する相手にこの表現を使うことに多くの人が軽い違和感を覚えるのは、字義的意味の残滓がまだ完全には消えていない証拠です。挨拶語というのは歴史的に、実質的な意味内容が磨滅して純粋な関係調整機能だけが残る方向に進化します(「さようなら」が「左様ならば」という接続表現だったように)。「お世話になっております」はその磨滅の途中段階にある、と見ることもできそうです。

「長文失礼します」のほうは、もう少し込み入っています。内容上その長さが必然であるなら、書き手に落ち度はないはずです。謝罪は「あなたに負担をかけることを私は認識しています」というシグナルであって、自分の行為が不当だという承認ではありません。つまりここでの「失礼」は道徳的な非を認める言葉ではなく、負担の認知を表示する社交上の標識なのです。

しかし、必要な情報を必要な長さで伝えることはむしろ正当であって、謝罪すべきは冗長な長文だけのはずです。「長文失礼します」が一律に使われる現状は、SNSという場が「短文が規範である」という前提を共有していることの反映です。つまりこの定型句は、個々の文章の適否ではなく、プラットフォームの規範への恭順を示す儀礼になっています。だから必然的な長文にまで謝罪が付くわけです。そしてここには軽い倒錯もあって、「長文失礼します」と前置きすることで書き手はむしろ堂々と長文を書く免罪符を得るという面もあるのです。

ここまで定型句を弁護しましたが、代償がないわけではありません。ここで生じている事態は、「言葉を使うことで考えることが免除されている」ということです。定型句に頼ることの代償、すなわち「「個別の事態を判断する労を、定型句が肩代わりしてしまう」がここで問われているのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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