「〈ことば〉について考える (第2回):「承知しました」と言っておけば失礼にならないのか?」

「〈ことば〉について考える」の第2回です。目上の人に「承知しました」と言っておけば「了解しました」よりマナー的に正しいと思い込み、何の考察もなく使う人が少なくありませんが、ここにはどういう問題が潜んでいるのでしょうか。

まず確認しておきますと、「了解=失礼」は歴史的な用法にも辞書的な意味にも基づかない、比較的近年に流通し始めた俗説(いわゆる「マナーの創作」)です(『三省堂国語辞典』編纂者飯間浩明氏の2016年の見解)。この説を正当化する際によく持ち出される「了=終わらせる、解=理解する、だから話を終わらせる権限のある目上が使う言葉だ」式の漢字分解は、漢字一字の意味を恣意的に拾えば何とでも言えてしまう類のものです。

さきほど「何の考察もなく使う人」と書きましたが、彼らを擁護する側の議論を先回りしておきますと、言語慣習の大部分は、考察なしに使えることにこそ価値があります。もう一つ、何の考察もなくこの表現を使用する人には、被害者の側面もあります。「了解は失礼」と信じている人の多くは、考えることを怠ったというより、ビジネスマナー研修や新人教育で権威をもって教えられたのです。とすれば批判の矛先は、使う個人ではなく、根拠を示す義務を負わないまま規範を生産できる「マナー産業」という制度に向かうべきかもしれません。

それに「俗説」とは言っても、まったく根拠がないわけではありません。なぜなら、「承知しました」「かしこまりました」は「分かった」に丁寧と謙譲の意味が加わった表現であるのに対し、「了解」は「わかる」の漢語表現に過ぎず特に敬意を含みません——つまり両者の間に敬語の度合いの差があること自体は言語的事実なのです。俗説の創作性は、この勾配を「禁止規則」にしてしまった点にあります。「敬意の度合いに差がある」から「目上に使うと失礼」は帰結しません。(「分かりました」も、謙譲の意味を含みませんが、失礼とは言われません。)

なぜ「敬語の度合いの差」が「禁止事項」として広まってしまうのでしょうか。それは、各人が「根拠を問う」というコストを払わず、「怒られない方」を選ぶからです。つまり無考察が単に規則を再生産するのではなく、規則の成立要件そのものになっているのです。健全な慣習は考察を免除してくれますが、マナー俗説は考察の放棄を養分にして育つのです。ここにどういう問題が潜んでいるのでしょうか。

第一の層は認識的な問題です。根拠を問わずに規範を受け入れること自体は、実は人間の認識の正常な形態です。私たちは証言(testimony)に依存して生きており、すべてを自分で検証することはできません。しかしその依存が健全であるためには、条件があります。それは、証言の供給源が、問われれば根拠を示せる立場にあることです。医師や辞書編纂者への依存が健全なのは、彼らの背後に検証の制度があるからです。ところがマナー言説の供給源は、根拠を示す義務を制度的に免除されています。つまりここに潜む問題は「人々が考えない」ことではなく、考えなくてよい相手と考えなくてはいけない相手の区別が失われていることです。認識的分業の配線ミス、と言ってもいいのです。

第二の層は倫理的な問題で、私はこれが最も深いと思います。敬語は本来、敬意という態度の表現のはずです。ところが「承知しました」が正解で「了解しました」が不正解、という規則体系が確立すると、敬意は正しい語形の選択に還元されます。規則を守る人が敬意を持っているとは限らず、逆に心からの敬意を「了解です!」に込める人が無礼と判定されてしまいます。形式が内実を代替するどころか、形式が内実を裁くようになるのです。ここには、敬意の外注化とでも呼ぶべき事態があります。何が敬意の表現かを自分の判断ではなくマナー産業に決めてもらう、ということですから。

第三の層は権力の問題です。規範が一つ増えるということは、違反の可能性が一つ増えるということであり、それは人を値踏みし裁く根拠が一つ増えるということです。「了解は失礼」説が広まって得をするのは誰でしょうか。規則を教える産業と、規則を知っていることで他人を測れる立場の人々です。マナーの増殖は中立的な現象ではなく、判定者と被判定者の非対称を生産し続けます。「礼儀正しさ」という価値の背後に、誰が誰を評価する権限を持つかという力の配置があるのです。

さて、今回のタイトルの問いについてもう一度考えてみます。「承知しました」という表現は、本当に問題がないのでしょうか。答えはYesともNoとも言えるでしょう。協調ゲームの観点からは「失礼と受け取られはしない(無難ではある)」のでYesですが、そこで表されているのは、敬意という態度であるとは限らず、単なる規則への恭順かもしれず、その点ではNoです。——そして両者は外から区別がつかないのです。

最後に、前回の例もふくめて、まとめて考察してみたいと思います。前回と今回で挙げた三つの事例は、きれいな階梯をなしています。第一の「お世話になっております」では、真偽を問うことがカテゴリー錯誤でした。規範(挨拶せよ)は健全で、問い方が間違っていたのです。第二の「長文失礼します」では、規範自体は理解可能(相手の負担への配慮)ですが、その適用が無差別になっていました。そして第三の『了解/承知』では、規範が事実の誇張から捏造されていたのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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