「ドゥルーズ『差異と反復』「序論」を読む(その6)」

今回は、序論の最後「概念的差異と概念なき差異」について考察します。この小見出しは表題こそ「差異」ですが、実質的には序論全体の反復論を差異論へと折り返し、本論の二本の軸(差異それ自体/向自的反復)を接続する蝶番の役割を果たしています。

序論でドゥルーズは反復の唯名的定義(définition nominale、さしあたり言葉の上で対象を特定するための定義)として「反復とは概念なき差異(différence sans concept)である」を採用していました。つまり反復とは、概念的には同一(識別不可能)でありながら数的・実在的には異なる、という事態です。この定義そのものが「差異」の語を含んでいる以上、反復を最終的に規定するには、差異の側の区別――概念的差異と概念なき差異――を明確にせざるをえない。だからこの節は差異の分類をしているように見えて、実は反復の身分を確定する作業なのです。

古典的な枠組(ライプニッツが極限例)では、概念は無限の内包をもちうるため、あらゆる数的差異は原理的に概念的差異へ還元されるはずでした(不可識別者同一の原理)。この枠内で反復が語りうるものになるのは、概念の規定プロセスがどこかで堰き止められる場合、すなわち概念が「阻止(blocage)」される場合だけです。(ここでblocageとは、「概念がそれ以上細かく規定を追加できなくなり、手前で止まってしまうこと」です。)ただしドゥルーズは、無限の内包をもつ概念を私たちの側の便宜で途中で打ち切って複数の個体にあてがう「人工的阻止」を退けます。それが生むのは類似と等価性、つまり一般性にすぎないからです。真の反復に関わるのは、概念そのものの本性に由来する「自然的阻止」であり、次の三つの場合が挙げられます。

第一に名目的(唯名的)概念です。語の概念(その語の意味内容)は定義上有限の内包しかもたず、それ以上細かくなりません。だから同じ語が離散的な複数の場面で繰り返される(離散的外延)。第二に自然の概念です。ここでは内包は無際限ですが、概念は自然のうちに即自的にあるだけで、自然は自らの概念を想起も反省もしない――概念が自己の外にある疎外の状態です。だからこそ物質的自然は同じものを繰り返すのです。第三に自由の概念です。行為者は概念(過去の経験の表象)を持ってはいますが、それを抑圧して意識できない。想起できないがゆえに、想起する代わりに反復してしまう。この三つが言語・自然・心という領域区分に対応し、語の反復・物理的反復・心的反復という三種の反復を生むのです。なお、カントが挙げた不一致対称物(左右の手)もこの系列に位置づけられます。概念上は同一の二つの手の差異は、概念ではなく外的直観の形式としての空間へ差し向けられるからです。

ここで重要なのは、この説明図式においては反復=概念なき差異が徹頭徹尾否定的・欠如的に規定されている点です。反復が生じるのは概念の「不足(défaut)」のせいであり、差異は概念の外に落ちた無関心な差異、外的な数的差異にすぎません。これが「裸の反復」「同じものの反復」に対応します。反復はなお概念の同一性に従属したまま、その欠損態として説明されているわけです。

ドゥルーズの決定的な点は、この否定的説明の全体を反転させていることです。もっとも鮮明なのがフロイトの例で、「抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ」という逆転がそれです。語においては詩がそうであるように、反復は概念の欠如の帰結ではなく、それ自体がひとつの積極的な力能(puissance)として働いている。概念の阻止は反復の原因ではなく、より深い反復の表面的効果にすぎない。したがって反復の根拠は概念の不足にではなく、概念ならざるもの、すなわちイデア(Idée)の過剰に求められねばならない、という方向が示されます(ここでのイデアはプラトン的イデアではありません→リンク)。

すると「概念なき差異」という定義自体が二重の読みをもつことになります。否定的な読みでは、それは概念に対して外的で無関心な差異(識別不可能な項どうしの単なる数的差異)であり、裸の反復に対応する。しかし積極的な読みでは、それは概念に還元されない内的差異――概念ではなくイデアに属する、強度的で特異な差異――を指します。この後者に対応するのが「着衣の反復」であり、仮面や変装、度合いの差異は反復に外から付け加わるのではなく、反復を構成する。反復とは内的差異を「反復するもの」、いわば差異の差異化子(différenciant)だ、という本論の主張がここで準備されます。反復が関わるのが交換不可能な特異性であって概念の一般性ではない、という序論冒頭(一般性と反復の区別)の議論も、ここで差異論の語彙に翻訳し直されているといえます。

もう一歩踏み込むなら、「概念的差異/概念なき差異」という対立の立て方自体が、表象=再現前化の体制に内属しています。どちらの項も「概念」を基準に定義されているからです。概念的差異とは概念の同一性に媒介された差異(第一章で種差=アリストテレス以来の系譜として批判的に検討されるもの)であり、概念なき差異は概念の欠損として測られた差異である。ドゥルーズが目指す「差異それ自体」はこの二者択一の外にあり、概念的でも単に無概念的でもない、イデア的・強度的差異です。序論末尾の見取り図はこうなります――差異は概念一般のうちに書き込まれることで(概念的差異として)同一性に従属させられ、反復は概念の欠如態(否定的な意味での概念なき差異)として同じ同一性に従属させられてきた。両者をこの従属から解放すること、すなわち差異をそれ自体において、反復をそれ自体に向けて思考すること。しかも両者は外的に並置されるのではなく、反復こそが差異それ自体を「引き出す」運動(永遠回帰の予告)として内的に結びつく――これが本論全体のプログラムです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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