
今日は東京都庭園美術館で『ルーシー・リー展』を鑑賞してきました。ルーシー・リー(1902-1995)は20世紀を代表するオーストリア出身でイギリスで活躍した陶芸家です。リーというと、ウィーンで工房を構えながらナチスの併合で1938年にロンドンへ亡命し、戦後にハンス・コパーとの協働を経て独自の様式を確立していった経歴も含めて、20世紀の美術史そのものを体現しているような人物です。ピンクや黄色の鮮やかな釉、掻き落としの細い線文、あの薄く立ち上がる高台の鉢――実物を間近で見ると、写真では伝わらない釉肌の質感がありました。
リーは通常「陶芸家(potter / ceramicist)」に分類されます。ただ、その分類自体が興味深い問題を含んでいます。リーはまさにその境界線上の存在だからです。彼女の経歴からして両義的です。ウィーンの工芸学校(Kunstgewerbeschule)でミヒャエル・ポヴォルニーに学んだ出自は、ウィーン工房的な「応用芸術(angewandte Kunst)」の伝統に属します。つまり最初から「純粋美術」と「工芸」の中間領域で訓練された人です。そしてロンドン亡命後、彼女が作り続けたのは鉢、花器、コーヒーセット、戦中はボタンまで――すべて「用途」を持つ器物でした。にもかかわらず、現在それらは美術館で彫刻のように一点ずつ展示され、オークションでは美術品として取引されます。この二重性は、ジャンル論として考えると少なくとも三つの層に分けられると思います。
第一に、制度の問題。日本では明治期に「美術」という翻訳語が成立したとき、西洋のfine artsの体系(絵画・彫刻が中心)を輸入した結果、陶芸は「工芸」として一段下に位置づけられました。しかし帝展に工芸部門が設けられ(1927年)、後に「人間国宝」制度ができると、工芸は独自の権威を持つ制度として再編されます。つまり日本の「陶芸」は、美術/工芸という区分そのものが制度史的な産物です。西洋でも事情は似ていて、リーが評価されたのはまさに20世紀後半、studio potteryが「クラフト」から「アート」へと制度的に格上げされていく過程と重なります。
第二に、概念の問題。伝統的な区別の基準は「用途の有無」――カントの言葉を借りれば、自由美(pulchritudo vaga)と付随美(pulchritudo adhaerens)の区別に遡れる発想です。器は「何かのためにある」から、目的なき合目的性としての純粋な美的対象になれない、という理屈です。しかしリーの鉢は、機能的には使えるけれど、実際にはほとんど誰も使いません。用途は可能性として保持されつつ、事実上は観照の対象になっている。「使えるが使わない」という様態は、用途基準の区別をすり抜けてしまいます。
第三に、これが一番面白いところですが、リー自身の立ち位置。彼女は同時代のバーナード・リーチ(彼は柳宗悦の民藝思想と結びつき、器の「無名性」「用の美」を説きました)から、当初「薄すぎる、モダンすぎる」と批判され、東洋の伝統に学べと助言されています。リーはそれを丁寧に聞き流して、自分のウィーン仕込みの都会的なモダニズムを貫きました。つまり彼女は、「工芸とは用に仕える無名の仕事である」という民藝的イデオロギーと、「陶芸も個人の芸術的表現である」というスタジオ・ポッタリーの立場とのせめぎ合いのただなかにいましたが、結果的に歴史の評価は後者に軍配を上げました。彼女の作品に署名(あの「LR」の印)があること自体が、無名性の美学への静かな反論です。ですから正確に言えば、リーは「陶芸」という、美術と工芸の区分を内側から不安定化させるジャンルの、しかもその不安定さを最も体現する作家、ということになるかもしれません。
今回の展覧会の副題は「―東西をつなぐ優美のうつわ―」となっています。この『東西』は直接にはリーと東洋陶磁の関係を指すのでしょうが、「そもそも東西のやきものはどこでつながっているのか?」という素朴な疑問が湧いてきました。たとえば高麗青磁と西洋のウェッジウッドはどこかで結びついているのでしょうか、それともまったく関係ない文脈で発展してきたのでしょうか。結論から言うと、「まったく無関係ではないが、直接の系譜関係はない」――両者は同じ一本の技術系統樹から、何世紀も隔たった別々の枝として派生したもの、というのが正確なところだと思います。
まず技術的な前提として、高火度焼成の技術の階梯を最初に、しかも圧倒的に早く登りきったのが中国です。高麗青磁は、この中国の技術が10〜11世紀に朝鮮半島へ伝わったものです。一方のヨーロッパは、この階梯をずっと登れませんでした。そこに大航海時代以降、中国の磁器が大量に流入します。ヨーロッパ磁器は中国磁器を模倣しようとする欲望から生まれたのです(たとえば18世紀初頭のマイセンの模倣による再発明)。
一方、ジョサイア・ウェッジウッドはこの磁器競争とはやや違う道を行った人で、彼の代表的な製品は実は磁器ではありません。クリームウェアと、有名なジャスパーウェアなどに見られる意匠は、新古典主義から来ており、図像的な参照先は東洋ではなく古代地中海です。
つまり高麗青磁とウェッジウッドは「いとこ同士」ですらなく、共通の祖先を持つ遠い傍系です。しかも面白いことに、高麗青磁そのものは19世紀末までヨーロッパにほとんど知られていませんでした。ヨーロッパが見ていた「東洋」は主に明清の景徳鎮と日本の伊万里で、高麗青磁の美が国際的に「発見」されるのは、20世紀初頭以降のことです。
そしてこの話は、ルーシー・リーにも接続します。リーが亡命先のイギリスで直面したバーナード・リーチの美学は、まさに宋磁や高麗のやきもの、そして民藝を規範とする「東洋回帰」の思想でした。リーはそれに従わず、ウィーン工房由来の都会的モダニズムを貫いたわけですが、彼女の釉薬実験や薄作りの磁器の仕事は、結果的に東西どちらの伝統からも等距離にある独自の位置を切り開いたと言えます。東アジアの枝と西洋の枝が20世紀のロンドンで再会し、緊張関係を結んだ現場に、彼女はいたのです。