序論の最後「概念的差異と概念なき差異」の後半です。前回「反復とは、概念的には同一(識別不可能)でありながら数的・実在的には異なる、という事態」であると書きましたが、これを、同じものが反復するのではなくニーチェ的に「選択的反復」となる、と読むことは差し支えありません。ただし、序論のこの箇所での議論の水準と、ニーチェ的な選択的反復とのあいだには一段の展開があるので、そこを区別しておきたいと思います。
この節で直接言われているのは、まず「概念の欠如ゆえに同じものが繰り返される」という否定的説明の反転、つまり反復は同一性の欠損態ではなく積極的力能だ、ということまでです。しかしこの反転は論理的に次の帰結を含んでいます。反復するのが「同じもの」でないなら、反復において回帰するのは差異そのものだ、ということです。同一性は反復に先立って存在し反復されるのではなく、むしろ差異の反復が生み出す二次的な効果にすぎない。ここで永遠回帰のドゥルーズ的読解――回帰するのは〈同じもの〉ではなく、回帰することだけが唯一の〈同じさ〉である(同一性が回帰するのではなく、回帰が同一性を構成する)――に接続します。
そして永遠回帰が選択的であるのは、まさにこの構造からです。ドゥルーズの読みでは、永遠回帰は存在するものすべてを無差別に回帰させる循環(ツァラトゥストラが小びとの「時間そのものが円環だ」という言葉を退け、動物たちが永遠回帰を「手回しオルガンの歌」に仕立てるのをたしなめる、あの「同じものの円環」)ではないのです(彼に嘔吐を催させたのは、最小の人間までもが回帰するという思想でした)。
永遠回帰はテストであり選別です。同一的なもの、平均的なもの、一度きりの条件付きでしか意志されないもの(「今回だけ」「もう一度だけなら」)は回帰の試練に耐えられず脱落し、極限まで行くもの、自らの差異=力能を肯定するものだけが回帰する。序論でカントの道徳法則と対比しつつ提示される定式――「汝の意志すること、その永遠回帰をも意志するような仕方でそれを意志せよ」――は、習慣の反復(同じ行為の惰性的繰り返し)とも想起の反復(過去の反復)とも異なる、未来のカテゴリーとしての反復を要求するものでした。
ですから整理するとこうなります。否定的規定(概念の阻止による裸の反復)=同じものの反復という見かけ。積極的規定(イデアの過剰、内的差異の力能)=反復するのは差異である。そしてこの積極的反復の存在論的・倫理的な名がニーチェの永遠回帰であり、それは本性上選択的である――回帰そのものが選別として働き、〈同じもの〉と〈似たもの〉を排除して差異だけを回帰させる。着衣の反復が裸の反復より深いという序論のテーゼは、永遠回帰においては「同じものは回帰しない」というテーゼの準備だった、と言えます。
一点だけ留保をつけておきます。序論の段階では永遠回帰の選択的性格はまだ予告的にしか語られておらず、本格的な展開は第一章末尾(存在の一義性と永遠回帰)と第二章(時間の第三の総合)を待ちます。言い換えれば、序論のこの反転が永遠回帰の選択説を論理的に要請していると言えるでしょう(この選択説自体はドゥルーズ『ニーチェと哲学』ですでに詳述されています)。
反復とは内的差異を「反復するもの」、いわば差異の差異化子(différenciant)だ、という定式は、『差異と反復』でもっとも躓きやすい箇所のひとつですが、その難しさの核心は、私たちが「反復」と「差異」を無意識のうちに次の図式で考えてしまう点にあります。私たちの常識的な図式とは、「まず同一的なものA(原型・第一項)があり、それがA′、A″…と繰り返される。反復とは同じものどうしの関係であり、差異はその外側にある(数的差異、あるいは劣化・偏差としての差異)」というものです。この図式では、差異と反復は互いに外的です。反復は同一性の側に、差異はその欠損や残余の側に振り分けられます。ドゥルーズが言おうとしているのは、この図式の完全な裏返しです。反復されるのは同一的な項ではなく、差異そのものである。そして反復とは、その差異を運び、移し、展開する運動である――これが「差異の差異化子」の意味です。
抽象的なままだと掴めないので、ドゥルーズ自身の例ではありませんが、音楽の主題と変奏で考えてみます。音楽の変奏曲においては、「まず主題という同一物があり、変奏はそこからの逸脱だ」と考えるのが常識的図式です。しかし優れた変奏曲では事情が逆で、主題は変奏の外に自存していません。第一変奏も第二変奏も、そして「主題」として最初に提示される楽句すらも、すべてが同じ資格での一変奏です。では何が全体を貫いているのか。同一的な旋律型ではなく、その主題に内在する緊張・不均衡・潜在的な力――内的差異――です。各変奏はこの内的差異のひとつの「度合い」「水準」「仮面」であり、変奏を重ねるという反復の運動こそが、この差異を次々と異なる姿へ差異化していく。反復が差異を「反復する」とは、こういう事態です。差異は反復の前に完成品としてあるのではなく、反復されることによってはじめて自らを展開する。だから反復は差異の単なる乗り物ではなく、差異を差異化させる作動因(différenciant)なのです。
序論冒頭にあったペギーの祭りの例において、連盟祭はバスティーユ奪取を「記念」する――第一回を同一的に再現する――のではありません。むしろバスティーユ奪取のほうが、あらゆる連盟祭をあらかじめ祝祭しているのです。ここで逆転しているのは時間的な順序づけです。「一回目」は反復に先立つ原型ではなく、反復の運動の中ではじめて「一回目」として、つまりn乗の力能をもつ特異性として構成される。モネの最初の睡蓮があとのすべての睡蓮を反復する、というあの言い方も同じ構造です。反復は第一項に第二項・第三項を付け加えるのではなく、最初の一回をn乗へと高める――反復されるものが特異性(一般性ではなく)だという序論冒頭のテーゼは、ここに帰着します。
仮面の例を考えてみます。裸の反復の図式では、仮面や変装は反復の本体(同じもの)の上にかぶさる二次的な覆いです。しかしフロイトの反復強迫でドゥルーズが示したのは、仮面の下に素顔(同一的な原光景)があるのではなく、仮面から仮面への移動そのものが反復だ、ということでした。反復されている「もの」を剥き出しにしようとしても、出てくるのはまた別の変装です。つまり反復の内容は同一項ではなく、変装から変装へのずれそのもの、すなわち差異です。仮面は反復に外から付け加わるのではなく反復を構成する、という一文はこの意味です。
こう見ると、「差異の差異化子」という定式は次のように言い換えられます。反復とは、同じものが回帰することではなく、差異が自分自身と差異化しつづける運動の名である。差異は静的な「二項間の違い」ではなく、それ自身のうちに不均衡を抱えた強度的なものであり(これが第五章の「即自的差異=強度」に繋がります)、その不均衡は一度では汲み尽くされず、繰り返し異なる水準・異なる仮面のもとで自己を展開せざるをえない。この「汲み尽くされなさ」がイデアの過剰であり、反復の積極的根拠でした。概念の欠如ゆえに同じものが繰り返される、のではなく、差異の過剰ゆえに一回では済まない――だから反復するのです。
最後に、この定式がなぜこれほど掴みにくいのかを考えておきます。それは、反復と差異を主語―述語の形で語らざるをえないのに、言おうとしている事態はむしろ両者が同一の運動の二つの名だ、ということだからです。差異の側から見ればその自己展開が反復であり、反復の側から見ればその反復される内容が差異である。表象の言語は「何が」「何を」と項を立てることを強いますが、ドゥルーズが指しているのは項ではなく運動そのものです。何度読んでも難しいのは読み方の問題ではなく、表象的な統辞法で反‐表象的な事態を言おうとするテクスト自体の緊張によるものだと思います。