「解体予定のムービルで『恐怖分子』を観る」

『恐怖分子』は、エドワード・ヤン監督による1986年製作の台湾映画です。〈あらすじ〉はリンクを参照していただくとして、一言で言うと、誰も「恐怖分子」ではないのに、都市という配置そのものがテロルを産出してしまうという映画です。

この映画は初見で筋が追えないように作られています。ヤンは説明的なショットを意図的に落としていて、観客は登場人物と同じ位置に——つまり、自分の行為が誰にどう届いているかを知らない位置に置かれるのです。誰も全体を見渡せないという主題が、そのまま語りの形式になっています。

同時に3つのストーリーが展開するのですが、それらを結ぶ蝶番が、たった一本の電話です。そして結末が二重になっています。これは「二つの現実がある」という言い方と、「片方が夢だ」という言い方の、どちらでもない第三の位相です。。正確に言えば、どちらが現実かを決定する基準そのものが取り下げられている、ということです。

通常の映画では、目覚めのショットによって虚構が回収され、現実の階層が復元されます。ところがこの映画では、目覚めが二度ある。回収する側の「現実」の座が一つに定まらないのです。夢の形式を使いながら、その形式が要求する上位基準を空席のままにしているのです。

この映画は一貫して「誰も自分の行為の帰結を知らない」世界を描いています。写真家は撮られた者の人生を知らず、少女はかけた電話の行き先を知らない。ならばその世界に、「何が実際に起きたか」を確定できる俯瞰的な視点だけが存在する、というのは辻褄が合わない。決定不能性は形式上の凝った仕掛けではなく、この都市の存在論そのものなのだと思います。台北という配置には、全体を見渡す座席がない。だから結末にも、それがないのです。

構成とは別の面に目を向けると、一つ一つのショットにはやはりただならないものがあると思いました。そして、その「ただならなさ」と、「筋が追いにくい」ということが、同じ一つの決定の裏表なのです。ヤンのショットは、情報を伝達する媒体として設計されていません。通常の劇映画のショットは、次のショットへ意味を受け渡すための中継地点で、渡し終われば用済みになる。だから観客は個々のショットを「見る」のではなく、通過してしまう。ところがヤンの一つ一つのショットは自律していて、自分の持続と自分の空間の論理を持ったまま、次へ意味を手渡さずに立っている。渡さないから連鎖が読みにくく、渡さないからショットそのものが濃くなる。物語への従属を解かれた画面だけが持ちうる密度です。

写真家が少女の顔を巨大に引き伸ばし、分割してスタジオの壁一面に貼りつける——あの断片が風で波打つショットは、この映画全体の自己言及になっていると感じます。イメージは全体としての「顔」を約束しながら、実際には接合部の隙間しか見せない。ブロウアップ的な「拡大すれば真実が現れる」という近代的信憑を、ヤンは逆向きに使っている。拡大すればするほど、そこにあるのは束としての断片だけです。

エドワード・ヤンは、ホウ・シャオシェンと並ぶ台湾映画の至宝です。『恐怖分子』以外にも、『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(91) や『ヤンヤン 夏の想い出』(00) などの名作がありますので、皆さんも是非ご覧になってください。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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