「『はじめてのベルクソン 時間をひらく哲学』を読む(第一章)」

一昨日発売になった『はじめてのベルクソン 時間をひらく哲学』(講談社現代新書、平井靖史)の第一章を読みました。「時間」は、理由はわからないのですが、自分にとって非常に大切なテーマで、実は平井先生の『世界は時間でできている』も買っているのですがまだ読んでいません。(平井先生、ごめんなさい!)

私はベルクソンはまったくのはじめてではなく、『時間と自由(意識に直接与えられたものについての試論)』をまがりなりにも通読していますので、冒頭の「等質的時間」、「空間化された時間」などの考え方は容易に理解できました。

しかし本書は「等質的時間=悪、純粋持続=善」という単純な二項対立の図式を拒絶します。その上で「時間が万人共通の量的な枠組みとして経験されるのは、知能の道具的本性と、閉じた社会の同質化圧力が合流した結果です。」(p.32)と述べます。「道具的本性」とは、知能が時間を操作可能な材料として加工してしまう傾向を指します。等質的時間は解体されるべきなのではなく、「解きほぐす」ことが必要なのです。

この後ベルクソンの『思考と動き』を参照しながら、「(「回顧的錯覚」は)、「閉じた社会」のメカニズムによって集団的に強化されます。」(p.37)という興味深い点が示されます。「回顧的錯覚」とは、何かが実際に起こったあとで、「それは以前から可能だったのだ」と思い込んでしまう転倒のことです。

一つ例を挙げてみましょう。ある音楽の新しいジャンルが生まれたとします。すると私たちはすぐに、「そういえば十年前のあの曲には、その兆しがあった」と言い始めます。しかしその兆しは、新しいジャンルが生まれる前には、誰の目にも見えていなかったはずです。つまり「可能性」は、実際に起こったあとで過去に書き込まれる。ベルクソンはこれを「回顧的錯覚」と呼んだのです。

「集団的に強化」とは、それは各人が勝手に犯す過ちではなく、社会がそう見えるように成員を訓練しているから、この錯覚がこれほど安定し、疑われもせずに反復されるということを意味しています。

第1章の後半で本書は重要なことを語ります。「(ベルクソンが譲れない一点は)この世界が「新しさ」を生み出しているという事実」である。「世界は、(中略)、可能性そのものを更新しながら進んでいる。」(p.38)

この主張は単なる「世界は変化する」という凡庸な観察ではありません。「可能性そのものを更新しながら」という言い方は、何が起こりうるか、その範囲についての主張になっています。つまり、何が可能であるかの領域そのものが、時間のなかで増えていくのです。ベルクソンの言う創造とは、既存の選択肢からの選択ではなく、選択肢の範囲そのものの拡張なのです。

本書から引用します。「回顧的錯覚が起こること自体が、時間の創造性の証拠である。」(p.40)回顧的錯覚とは、生じたものを事後的に過去へ投射する操作です。ですから、何も新しいことが起こらない世界では、遡って可能だったことにすべきものが存在せず、したがって錯覚も生じえません。つまり回顧的運動は、それが否認しているはずのもの——現実の新しさ——を、自らの運動が起こる条件として前提しているのです。

その上で本書は、ベルクソンの「直観」を「知能が生み出す変形のパターンを精密に読み取り、その変形が生じる必然性の中に、変形される前の運動の姿を見出す」(p.44)ことであると定義します。決定的なのは「必然性の中に」という句で、知能の変形が恣意的なら逆算は不可能ですが、それが知能の本性からくる必然的な変形である以上、何がどう変形するかは一意に決まります。だから知能の批判は、直観への障害の除去ではなく、直観の手段になるのです。

この定義には二つの効能があります。ひとつは、直観を検証可能な作業に変えることです。誰かが「直観した」と言うとき、この定義なら「あなたはどの変形パターンを、どう逆算したのか」と問えます。つまり直観に対して批判する可能性が確保されるのです。もうひとつは、知能の変形が生物学的必然性と社会的圧力の合流としてどのようにして生まれたかを説明していたからこそ、その必然性を利用した逆算が可能になるということです。等質的時間がどう生まれたかの説明は、たんなる批判ではなく、直観の技術的前提だったわけです。

その上で本書は、ベルクソンのキーワード「聴診」を「生成のただなかにある時間へ意識を向け直すこと」(p.47)と捉え直します。聴診とは、聴診器の聴診ですね。つまり中を開かずに内部を知る技術です。さらに言えば、聴診は視覚ではなく聴覚に属します。聴診という語は、直観の対象を、見られるものから聴かれるものへと移し替えているのです。

聴診が捉えるのは、すでに変形されて固まったものではなく、いま変形されつつあるものです。だから聴診は、回顧的錯覚が作動しきる手前に身を置く技術になります。錯覚は事後的に働くのですから、事態の渦中に留まりうるかぎりで、錯覚を出し抜けるのです。

以上の考察の上に、 平井先生独自の2つの用語が提案されます。すなわち「アスペクト」(時間を「完了相」で見ないこと)と、「スケール」(時間を見るスケールを動かすこと)です。

「アスペクト」は文法用語としての相そのものです。時制は、出来事を発話時点との関係で時間軸上のどこに置くかを指定します。つまり出来事を点として扱い、直線上に配置する操作であり、これはまさにベルクソンの言う空間化された時間の文法的な現われです。対して相は、出来事がどこにあるかを言いません。出来事の内的な時間構造をどう見るかを指定するのです。He has finished. と He is finishing. の違いを考えてみてください。同じ出来事でも、前者は終わったものとして外から眺め、後者は進行中のものとして内側から見ている。ベルクソンが求めるのは、後者の眼差しです。

「スケール」の方で重要なのは、これが視点の主観的な取り替えではないことです。異なるスケールのそれぞれが実在的であり、しかもどれか一つが本当の時間だというわけではないのです。等質的時間の最大の特徴は、実はスケールを持たないこと——どの倍率で見ても同じ目盛りが並ぶこと——ですから、スケールの導入はそれ自体が等質性の解体になっているのです。

第一章では、時間の型を解きほぐし、その回顧的錯覚を暴き、新しさの実在を確保し、知性の逆算として直観を規定し、その作業を聴診という身体的比喩に収め、最後に2つの用語が提案されました。第二章以下が楽しみです。

(雑談ですが、私は大学の授業で、本書で引用されている『思考と動き』の翻訳者原章二先生に(哲学ではなく)フランス語を教わっていました。ここでまたすべてが回帰するのは不思議な気分です。)

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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