第二章はベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』の解読です。
まず「習慣」と「知能」のおかげで私たちが型(テンプレート)を反復できる、ということが指摘されます。しかし、その型が通用しない事態が生じたらどうなるか。そういう時こそ「私たちが生きた「人格」であること、そしてその「自由」が試される」(p.62)と著者は語ります。
実は、型が機能しなくなる際には、その前から切れ目のない質的な変化が起きていたのです。そして、そのような変容の際に私たちがとる1回限りのふるまいをベルクソンは「自由」と呼びます。
ここでは自由の基準が「選択肢の複数性」から「反復不可能性」へずらされています。「AもBも選べた」という言い方は、行為が終わったあとに描いた地図を、行為の最中に投影しているだけです。型は反復できるから型であるのに対して、自由な行為は反復できないから自由なのです。
この後有名な「時計の鐘を数えるエピソード」が出てきます。ここで「知能」で鐘を量的に数えることと、「感性」で質的に捉えることが対比されます。ベルクソンは二つの能力の優劣を論じているのではなく、数を数えるという操作が、実は質的な把握の上に二次的に成り立っていることを示そうとしています。私たちの型が機能しなくなった時にその背後で、「知能」ではつかみきれなかった何かが変化していたのです。そしてこの変化をベルクソンは「持続」と名付けました。
ここで著者はこう問います。「では、なぜ私たちはこの質の変化を「量の増大」として捉えてしまうのか。」(p.75)著者によると、ベルクソンが批判しているのは「量」自体ではありません。「彼が退けているのは、対象をよく見もしないまま、手持ちの道具-切り分け、並べ、比較する知能の単純な枠組み-のほうに対象を合わせてしまう怠惰な姿勢」(p.77)なのです。
前述の「鐘の音のエピソード」のように二種類の多のあり方がある場合に、ベルクソンはこれを「多様体」と呼び、「量的多様体」と「質的多様体」を区別します。ここで本書では数学者リーマンの多様体の概念とベルクソンのそれとを比較していますが、詳細は割愛します。(この「多様体」はドゥルーズ『差異と反復』の中心概念でもありました。)
この後も、「ベルクソンは、私たちの自我を、表層と深みという二つの傾向のあいだに拡がるものとして捉えています。」(p.82)という自我の連続性の指摘や、「「保持する」ということに、二つのまったく異なるやり方がある」(p.86)というカント哲学への異議申し立てなど、興味深い論点が次から次へと出てくるのですが、すべては紹介しきれません。
第2章をまとめておきましょう。型で生きるとは、出来事を次々に完了させていくことです。片づいた、終わった、次へ。完了とは、出来事を過去の側に区切って置く操作であり、まさに空間化にほかなりません。この水準では、何も変わっていないように見えます。同じ型が同じように機能しているだけだからです。
ところが「スケール」を切り替えると、完了の下で進行していた別のプロセスが見えてきます。深みの自我の変容です。これは完了しません。区切れないから、進行しつづけるのです。変容が完了すると、私たちはこう言います。「振り返ってみれば、そうなるしかなかった」。あの経験があったから、あの出会いがあったから、いまの私があるというように、それは必然に見えます。だがベルクソンにとって、この必然性は遡行的な錯覚です。可能性が現実に先立っていたのではなく、現実が生じたあとで、その影が可能性として過去に投射されるのです。
この章の副題である「自分を生き直す」とは過去をやり直すことではありません。当たり前に見えている現在を、そうならなかったかもしれないものとして取り戻すこと、完了したものを、もう一度未完了のスケールで見るということなのです。