「『はじめてのベルクソン 時間をひらく哲学』を読む(第三章)」

第三章はベルクソン『物質と記憶』の解読です。

私たちは、たいてい心をこんなふうに思い描いています。外に物の世界があり、頭のなかに小さな劇場があって、そこに世界の映像が映し出される。私が見ているのは、その映像のほうだ、と。この世界像を著者の平井は(杉山直樹の表現を借りて)「カプセル世界」と呼びます。(「表象の世界」と呼んでもいいかもしれません。)

ベルクソンはこのカプセルを壊そうとしたのではありません。そんなものは最初からなかった、と言った。壊そうとすると、必ず「では内と外はどうつながるのか」という難問が生まれます。ベルクソンは橋を架けません。渡るべき川などなかったと言うのです。ここはカントと違うところで、興味深いところです。

ベルクソンは、「物質」と「心のなかのイメージ」という区別そのものをやめてしまいます。両方をまとめて「イマージュ」と呼ぶ。私の見ている机は、私の頭のなかの映像でもなければ、色も匂いもない物理的な塊でもない。色をもち、手ざわりをもった、そのままのものです。世界はそういうイマージュでできていて、私の身体もそのひとつにすぎない。(うーん、正直まだ自分の中で「腑に落ちた」とは言えない部分です。)

平井は心身問題を、認識の問題ではなく会計の問題として立て直します。物質の世界には厳密な帳簿があります。作用と反作用は等しく、エネルギーは保存される。何かが増えれば、どこかで何かが減る。勝手な増減は許されません。ところが、心の世界にはこの帳簿がない。脳のなかの分子の運動から、なぜか「赤」という色や「ド」という音が湧いて出る。物理の帳簿のどこにも記載のない項目です。しかもそれは物質の側に何も返さない。記帳されない、純粋な出超です。心身問題とは、二つの実体をどうつなぐかという問題ではなく、そもそも二つ目の世界がどこから供給されたのか説明できていない、という問題だったのです。

では、ベルクソンはどう帳尻を合わせたか。彼は、知覚を、足し算ではなく引き算として考え直したのです。世界のイマージュはたがいに作用し合っている。私の身体は特別なイマージュで、刺激にすぐ反応せず、応答を選ぶ余裕をもっている。だから届いた作用のうち、自分の行動に関わる面だけを受け取り、あとは素通りさせる。残ったものが知覚です。「知覚とは、世界の全体から不要なものを差し引いた残りなのです」(121頁)。

つまり、私は世界に何も付け足していない。だから帳簿は破れません。ここでベルクソンの問いは、ふつうと逆さまになっています。「なぜ私たちは世界を知覚できるのか」ではない。すべてはすでに現れているのだから、「なぜ全部は見えないのか」のほうが問題なのです。答えは、行動のため。見えているものの輪郭は、私にできることの輪郭と一致しています。

記憶についても同じ構図が繰り返されます。くり返し使う記憶は、身体にしみこんで自動的な型になります(習慣記憶)。速くて経済的ですが、出てくる答えは前回と同じです。一方、一度きりの出来事の記憶は、役に立たないまま残る。平井はこれを、現在の有用性からはみ出した「余剰」と呼びます。

そして「過去はそれ自体で保存される」。誰かが保存しているのではありません。過去はもう何も働いていないので、現在と場所を奪い合わない。ぶつからないから、しまっておく場所も要らない。ベルクソンにとって不思議なのは、記憶が残ることではなく、私たちが忘れられることのほうなのです。

この余剰を使おうとすると、行動が遅れます。深いところまで降りていって探してくるからです。しかも、探しに行った先に必要なものがある保証はない。役に立つと分かっているものは、もう習慣の型になっているからです。平井はこの遅れを「賭け」と表現します。遅れることの危うさと、新しいものが生まれることとは、同じひとつの構造の裏表なのです。 創造性とは、無駄を抱え込み、答えを遅らせる能力のことになります。

ベルクソンは、ひとつの原理からすべてを導き出すタイプの哲学者ではない。問題の局面ごとに、違う道具を持ち出してくる。悪く言えばパッチワークです。しかし、それこそが彼の仕事だ、と平井は言います。ベルクソン自身の比喩では、哲学は仕立て屋の仕事です。既製服は誰にもぴったりは合わない。対象の寸法を測り、その対象にしか合わない概念を、そのつど裁断するのです。

以上で第三章のまとめを終えますが、もちろん本書ではあの有名な「記憶の逆円錐図」についても詳細に論じられています。本書のまとめとは関係ないですが、第三章を読みながらいろいろな連想が湧いてきました。ベルクソンとフロイトはお互いに直接的に参照関係になかったとしても、同じ「無意識」という語で正反対の方向から同じ領域に迫ったのではないかとか、認知症は記憶がなくなるのではなく、記憶を探しに行くことができない疾患であるのではないかとか、「純粋記憶」の創造性とドゥルーズの言う「選択的永遠回帰」は関係があるのか、などの疑問です。見当外れかもしれませんが、いろいろな連想をしながら読み進めるのも、素人の特権ですね。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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