第四章はベルクソン『創造的進化』の解読です。
まず、鳥が飛び、人間が遠くのものを見るということがあたり前のことではなく「前代未聞の発明」(p.143)であるということが指摘され、『創造的進化』はその驚きに正面から向かった書物であるとされます。
次に「エラン・ヴィタル(「生命の躍動」本書ではあえてこの訳語を使っていませんが)」という用語が取り上げられます。ベルクソンは当時の「機械論」と「目的論」の限界を明らかにします。彼によれば、機械論は原因を過去に置き、目的論は原因を未来に置くので、到達点があらかじめ確定しているという構造は共有しているのです。彼が「エラン・ヴィタル」という語で伝えたかったことは、新しさとは可能性のリストの中から何かが実現するのではなく、可能性のリストそのものを書き替えることだということです。
ここで平井は「探索の温度」という概念を持ち出し、「エラン・ヴィタル」(熱い=やわらかい=探索が広い)と「物質性」(冷たい=固い=動けない)を対照させ、ベルクソンは、この両者が拮抗する場を「折り合い」と呼んだと述べます。生命の進化はこのような「折り合い」の結果なのです。
平井はエラン・ヴィタルの特徴を3つ挙げます。1つ目は「エランは一つであること」、二つ目は「エランはより高い方向へ向かうこと」、三つ目は「エランは有限であること」です。有限とは枯渇や消耗ではなく、「かたちが定まるにつれて自由度が絞り込まれていくこと」です。
三つを並列に挙げるとこれらは独立した性質のように見えますが、実際には有限だからこそ分岐するのです。無限の力なら物質の抵抗をすべて押し切って一本道で進めるはずで、分岐する必要がありません。力が有限で、物質が抵抗するがゆえに、一つの衝力は複数の方向へ分割され、それぞれの線が何かを得る代わりに何かを諦めるのです。つまり〈一つであること〉と〈大分岐〉(後述します)は矛盾せず、有限性が両者を媒介しているのです。統一は目標の側ではなく起源の側にあります。ベルクソンの表現でいえば背後から押す力(vis a tergo)であって、前方の設計図ではありません。これが「エランは一つ」と目的論を分ける決定的な一点です。
平井は「エランは一つであること」に関して、「探索が時間的リーチの広さと結びつく」とも述べます。要するに40億年の歴史を不可分に捉えることで、進化の持っている探索力が見えてくると言うのです。
この後本書では、エランが最初は全方位に拡がり、それが特定の方角に絞り込まれていくプロセスが語られます。これを平井は「大分岐」と呼び、その後で生命が同じ形態の再生産をする段階「旋回」に入ると述べます。
続いて、実際の生命の歴史において、実際にどのような分岐が起こったのか詳述され、「本能」と「知性」が対比されます。これは本能→知性という進歩の梯子ではなく、有限な衝力が分岐した結果としての二つの完成形です。本能は物質を「もの」として直接に知り(道具は自分の身体の一部)、知性は「関係・形式」を知ります(道具を製作する。ホモ・ファーベル)。それぞれの領域では本能のほうが知性より有能ですらありえます。したがって第二特徴の「より高い方向へ」は、価値の序列ではなく〈非決定性の量が増える方向〉と読む必要があります。『創造的進化』では、本能と知性の対比の先に直観が置かれます。直観とは「無私になり、自己意識的になり、対象について反省しうるようになった本能」です。
第四章の、著者の言葉によるまとめです。
「生命の創造性は、水平に並んだ選択肢の中から一つを選ぶことではなく、上向きに広がろうとする力と、下向きにかたちを与えようとする物質的条件との折り合いの中で生まれる。」(p.180)だから「進化全体という巨大な時間スケールを一つの運動として見る」(p.180)ことが要求されるのです。
ベルクソン哲学の魅力は、生命や運動を記述する際に、その記述そのものが、まるで生命のように運動している点にあります。このダイナミックさは、なかなか他の哲学者には見られない点だと思います。