今回は、9月1日東京大学教育学研究科の本田由紀氏がXに投稿した件(リンク)について考察してみます。引用元になっているのは、彬子女王の皇族費増額をめぐる投稿で、そこでは麻生家との縁戚関係が明示的に持ち出されています。本田氏の投稿の文面は以下の通りです。
「この人たちを目にするたびに、遺伝的要因のおそろしさを感じる。露出の増加が逆効果になるかもしれない」
本田氏の投稿の意図は、おそらく麻生家と皇室の縁戚をめぐる世襲そのものの揶揄であったと思われます。しかしその意図に反して、この投稿は世間の反発を強く招いてしまいました。いったいなぜでしょうか。それは、「遺伝」で人を値踏みする姿勢と、「露出」という言い方に問題があったためだと思われます。意図は世襲批判でも、受け取られたのは「容姿」と「血統への嫌悪」でした。
今回は、差別を糾弾してきた本田氏が差別に加担した点が批判されていますが、投稿者が東大教授であることもある意味を持っています。ひとつは責任の重さです。肩書きは、私人の愚痴を公的な発言に変えてしまいます。もうひとつは、(こちらが本題だと思いますが)「東大教授」という位置そのものが、今回の発言と同じ構造を持っている、つまり日本で最も強い象徴的な序列の頂点から、別の序列(血筋)を嗤っている、という問題が存在するのです。
本田氏がいわゆる「左翼」であることは間違いないと思いますが、今回の投稿は内容以上に、都合よく左翼攻撃に使われてしまいました。差別批判の側が差別的語彙を使った、という一件は、差別批判そのものを無効化する道具として流通するのです。ただ、そこで少し立ち止まりたいのは、「左翼攻撃に利用される」という理由で発言をかばうと、それはそれで、発言の是非を政治的損得で測ることになります。利用されることと、間違っていることは、別々に扱うべきです。
本田氏が「心の中で」こう考えていることは、断罪されるべきでしょうか。私は、そこは分けるべきだと思います。心に浮かぶことは選べません。ある顔を見て何かを感じてしまうのは、意志の手前で起きることです。そこを裁いたら、それこそ思想の内面を取り締まることになります。近代の道徳が「選んだことだけを裁く」と決めたのは、まさにその歯止めのためでした。問題になるのは、それを公に出したという行為のほうです。ここは選べました。
ただ、内面と行為をきれいに切り分けられるかというと、なかなか難しいです。人格は、何を感じるかまで含めて人格だからです。だから「心の中は自由」と言い切ると、今度は人柄の評価という次元が丸ごと消えてしまいます。そこで、私が提案したいのは、これを信頼の問題として見ることです。裁くのではなく、この人の書くものをどう読むかが変わる。それは処罰ではなく、読者の側の自由です。
私は人々が倫理という時に「内面」と「外面」を同じように語ることに疑問を感じていました。また「義務論」と「功利主義」を何も考えずに並べて論じることにも疑問を感じていました。カントは確かに動機を見ますが、内面を裁く仕組みではありません。定言命法は「その格率を万人が採れるか」を問います。つまり公共性のテストです。むしろ「他人の内面はけっして見えない」と彼は繰り返します。だから他人を裁く道具にはなりません。自分に向けてしか使えないのです。功利主義のほうは、外面です。ただ外面だけを見るがゆえに、誰の内面も守らない。制度としては強いけれど、個人が引き受けるものが残りません。そう並べると、両方とも「内面/外面」で切れていないのがわかります。カントは内面から公共へ、功利主義は公共から個人へ、それぞれ橋を渡そうとして失敗しているのです。
ところで「差別」をいけないという人は多いですが、これは公共の場での差別のことです。内面の「差別」をはたして断罪できるのかは難しいところです。ただ、「内面を裁く」「内面に触れない」という二つに分けると見えなくなるものがあります。
まず「断罪」という語を外してみましょう。内面の偏見は、裁く対象ではないけれど、変えられる対象ではあります。心に浮かぶものは選べなくても、それに気づくこと、何度も浮かぶそれを疑うことはできます。アリストテレスが徳を習慣の産物と考えたのはそこで、感じ方そのものが時間をかけて育つ、と考えました。だから「内面は自由だから触れられない」というのも、「内面まで裁く」というのも、どちらも極端です。裁判所の言葉で内面を扱おうとするから、その二択になるのです。
もうひとつ、実際問題として内面と公共はそんなに分かれていません。何を口に出せるかが変われば、何を感じるかも変わる。逆も同じです。今回の件で反発が強かったのは、そこが直感されているからでしょう。「言ってはいけない」が緩むと「思ってもいい」に効いてきます。公共の差別は制度の問題、内面の偏見は自分自身への課題。同じ「差別」という語で呼ぶから混乱するのです。
内面において本当に「差別」意識を変えられるかですが、私は相当難しいと思います。むしろ差別意識が人間のアイデンティティの根幹をなしているように思えます。極端な説に思われるかもしれませんが、あらゆる面にわたって微細な差別がないか子細に点検してみれば、そうとしか言えないのではないでしょうか。
私たちは差異を見て序列をつけずにいられません。似ている/似ていない、うまい/へた、上/下。ニーチェが道徳の起源に置いたのがまさにこれで、価値評価は生き物の基本動作だ、と彼は言います。そこを消せると考えるのは無理です。ただ、これを「差別」という呼び名で呼ぶべきか、はもう一度考え直さないといけません。
気を付けなければいけないのは、「序列づけの一般性から、特定の差別の正当性は出てこない」ということです。人が区別せずにいられないことと、肌の色や血筋で人を値踏みすることは、別の出来事です。前者は自然で、後者は歴史の産物です。日本の被差別部落も、優生保護法も、はっきり作られた日付があります。作られたものは、遅くても壊せるのです。
「差別意識はアイデンティティの根幹だ」という言い方にも問題があるのかもしれません。この命題は、検証できない形をしているからです。どんな反例も「気づいていないだけ」で吸収できてしまいます。反証を許さない主張は、深く見えて、実は何も言っていないことがありえるのです。むしろ逆向きに問うほうが実りがあるかもしれません。「差別が消せないとして、それでも変わってきたものがある。何が変わったのか。そして何がそれを変えたのか。」です。