(前回の続き)
自分の感じていること、考えていることはどうも「哲学的」なことであると、30代か40代かわからないですが自分でもうすうす感じ始めたのでした。
いや、大学で〈フランス現代思想〉をやっている時から、読みもしない哲学書を買い集めてはいたのです。
(卒論でやったブランショはもちろん、フーコー、デリダは当然買っていました。
丸善でドゥルーズ『差異と反復』の原書も買いましたが、読んではいません。ただ単にかっこつけていたのですね。ハイデガーやニーチェだけはちょこっと読んでいました。)
しかし、文庫といえども、特にカントやヘーゲルなどのドイツものの原典は手強くて、
何が書いてあるのかさっぱりわからなかったのも事実です。
30代、40代は〈フランス現代思想〉に飽き足らないものを感じながら、哲学の核心部分には近づけずにいたのです(別にドイツ哲学が核心だと言いたいわけではありません)。
「60歳になっても読み始められなければ、きれいさっぱり哲学にはオサラバしよう!たくさんの本もすべて処分しよう。」という気持ちだったのを、今でも覚えています。(次回に続く。)