今回は、『現代思想入門』(千葉雅也、講談社現代新書)の【第三章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。
(ただし引用でなくても、「自己への配慮」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。
【第三章 フーコー -社会の脱構築】
フーコーは、『今を生きる思想 ミシェル・フーコー』において、4回にわたって扱いました。(リンク)そこで今回は、そこではふれられなかった点や、千葉独自の着眼点などがある場合のみ、それを詳しくみていくことにします。
フーコーは権力の二項対立的図式に疑問を投げかけます。
「(フーコーは)支配を受けている我々は、実はただ受け身なのではなく、むしろ「支配されることを積極的に望んでしまう」ような構造があるということを明らかにするのです。」
* このような構造を、フーコーは「権力は下から来る」と表現しています。これは「権力=国家や君主などの上位者が下に押し付けるもの」という伝統的なイメージを否定し、権力をもっと分散的で日常的なものとして捉える立場を表しています。
* フーコーは、権力を「所有されるもの」ではなく「関係の網の目」として理解します。つまり、権力は特定の主体が握っているのではなく、人々の相互作用の中に遍在するのです。
* 「下から来る」とは、権力は局所的に生じることを示しています。権力は、学校、病院、軍隊、職場など、日常生活の場での規律や監視の実践から生まれるのです。国家や法的権威も、こうした局所的な力関係の集積や調整によって成り立つのです。
* 権力は抵抗とともに存在します。支配する側が一方的に行使するのではなく、被支配者との関係の中で常に調整・変化しているのです。
フーコーはこのような事態を『性の歴史Ⅰ 知への意志』において、「ひとことで言えば、権力とは「無数の力関係」なのです。」と述べています。
再び本書から引用します。
「フーコーの思想につねにあるのは、権力構造、あるいはフーコーの言葉で言うと、「統治」のシステムの外を考えるという意識です。」
* フーコーはいつも「社会を動かしている権力の仕組み」そのものを分析していました。彼の言葉でいうとそれは 「統治」(governmentality) です。ここでいう「統治」とは、単に国家や政府の政治支配だけではなく、人々を管理し、行動を方向づけるさまざまな制度や仕組み(教育、医療、監獄、法律、経済など)を指します。
* 千葉が強調しているのは、フーコーが「その仕組みの中でどう動くか」だけではなく、「そもそもその枠組みの外を想像できるか」という視点を持っていた、ということです。
フーコーは初期の著作『狂気の歴史』において「正常と異常がはっきり区別されないで、曖昧に互いに対して寛容であるような状態をよしとするような、そういう価値観」を提示します。その後『監獄の誕生』では、17~18世紀の権力のあり方を「規律訓練」として捉えます。その際に、ベンサムの考案したパノプティコンがそうであったように、近代社会においては、支配者が不可視化されるのです。
「これが個人的な心の発生だとも言えます。今日のプライバシー、個人的なものというのは、そういった自己抑制と共に成立したのです。」
* パノプティコン的な監視の仕組み と、私たちが「個人の心」「プライバシー」と呼ぶものとの関係を整理してみます。
* パノプティコン(全展望監獄)は、看守が中央から囚人を一方的に監視できる設計でした。囚人は「いつ見られているかわからない」ので、実際に監視されていなくても 自分で自分を律するようになるのです。この仕組みをフーコーは「近代社会の権力モデル」として解読しました。
* 従来の支配は「見える暴力」や「権力者の直接の強制」によって成立していました。しかし近代以降は、権力者の姿が不可視化され、人々は「監視されているかもしれない」という前提のもとで 自らの行動を調整します。つまり、権力は外からの圧力だけでなく、内面化されて働くのです。
* 千葉の記述は以下のことを表しています。すなわち、人が「誰も見ていないときの自分」「自分しか知らない心の動き」を意識するようになるのは、実は「監視のもとで自己を抑制する経験」と結びついている。つまり、「自分の内面」や「プライベート」という意識そのものが、監視社会的な構造から生まれてきたということです。
この後本書では、個人に働きかける「規律訓練」の一方、集団に働きかける「生政治」について語られます。「規律訓練」と「生政治」については箱田先生の本でだいぶ詳しくやりましたので、そちらを参照していただければと思います。
フーコーは「規律訓練」や「生政治」の概念を使って、「人間のその過剰さゆえに持ちうる多様性を整理しすぎずに、つまりちゃんとしようとしすぎずに泳がせておくような社会の余裕を言おうとしている」のです。
* フーコーは「規律訓練」や「生政治」に対して、単純に「良い/悪い」と価値判断して異議を唱えているわけではありません。彼の関心はもっと分析的・記述的なもので、権力の働き方を明らかにし、その可能性や限界を考えることにありました。
* フーコーはこれらを「批判するために暴いた」のではなく、どういう歴史的条件のもとでそれらは成立し、私たちをどのように形づけているかを記述しようとしました。具体的には、監獄、病院、学校といった制度を例に、近代の権力が人を「規格化し、管理し、最適化する」仕組みを描き出しました。その一方で、フーコーは権力には常に「抵抗」や「余白」が伴うことも示しています。
* 千葉は、フーコーが単なる「管理社会批判」を超えて、次の点を見ていたと解釈します。人間は本来、多様で過剰で、完全に管理しきれない存在である。規律や生政治はその多様性を整理しようとするが、同時に余白を残さざるを得ない。フーコーは、その「管理しすぎない余裕」に着目しようとしていたのです。つまり、管理そのものへの全面的な異議申し立てではなく、人間の多様性や過剰さをどのように生かす余地があるのかを考えていた、という読みです。
本書からもう少し引用します。
「フーコーの大胆なところは、我々が今当然だと思っている「個人」というあり方は、歴史のなかでつくられた結果であって、そもそも、「個人が個人であるとはどういうことか」自体が歴史のなかで変わってきたのだ、と考えるところです。」
「(中略)アイデンティティなるものが成立するそのときに、良いアイデンティティと悪いアイデンティティという二項対立が同時に成立したのです。」
千葉は最近出版された『性の歴史Ⅳ』を参照し、次のように述べます。
「(フーコーによればアウグスティヌスは)人間は、やってはいけないことをやってしまうかもしれないという闇をかかえているから、つねに自分で自分に注意していなければならない、という心の体制を打ち立てた人です。」
これはわかりやすく言えば、キリスト教が「罪の概念」を導入したということです。
「こうして、原初的な意味での「個人」が成立し、その個人は闇を抱え込むということになったのです。」
それに対して、後期のフーコーは古代ギリシア・ローマへ向かいました。千葉はこれを「「つねに反省し続けなければならない主体」よりも前の段階に戻るということ」であると捉えています。
「古代の世界はもっと有限的だった。自己との終わりなき闘いをするというよりは、その都度注意をし、適宜自分の人生をコントロールしていく。このことを、古代では「自己への配慮」と呼んでいました。」
* 私たちは「自分は自分だ」「個人はもともと存在する」と思いがちですが、フーコーはそう考えません。監視・規律・生政治のような仕組みの中で、人は「個人」として立ち上げられるのです。その過程で「良い個人/悪い個人」「正常な人/異常な人」という区別が同時に作られます。つまり、「私は私」という感覚もまた社会的に条件づけられた産物だ、ということです。
* アイデンティティが制度的に成立するやいなや、それは必ず規範的な線引きを伴います。たとえば「理想的な市民」と「逸脱者」、「健全な性」と「異常な性」などです。このように、アイデンティティは中立的に与えられるものではなく、評価や序列を生み出す枠組みとセットで登場するのです。
* 晩年のフーコーは、近代的な「主体は常に自己を反省し、正しくあるべし」というモデルに縛られた私たちのあり方を問題視しました。そこで彼は、古代ギリシア・ローマにあった「自己への配慮」という実践に注目します。古代では、道徳的な「自己反省主体」ではなく、自己を磨き、形づくる技術が重視されていました。千葉が言う「『つねに反省し続けなければならない主体』より前に戻る」とは、この古代的な実践に光を当てること。つまり、自己を監視・管理する主体ではなく、自己を創造する主体の可能性を探ったのです。
* これで第三章を終えますが、やはりフーコーはスリリングです。倫理学との関わりで言えば、フーコー自身の「系譜学(genealogy)」は、規範や主体が歴史の中でどう作られ、配分され、内面化されるかを追う手法なので、「道徳/善悪」の起源や変容にもそのまま適用されてきました。
* フーコー的系譜を正面から継ぐ研究としては、The Emergence of Sexuality: Historical Epistemology and the Formation of Concepts (Arnold I. Davidson)が、 医学・道徳・規範の交差から「逸脱」のカテゴリーがどう成立したかを探究しています。また、『何が社会的に構成されるのか』(岩波書店)イーアン・ハッキングでは、人を分類する「作られ方(making up people)」の系譜=道徳的範疇の生成論が展開されています。
フーコー直系ではないですが、善/悪・道徳の“来歴”を描く倫理学の有名な著作としては、以下のようなものが挙げられます。(ちなみに私は全部「持って」いますが「読んで」いません。これくらい有名な本を読んでいないうちは、偉そうに倫理学を語れません。)
・アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』(近代道徳言語の断片化の「歴史」を語ります。方法はアリストテレス的だが問題意識は系譜学的です。)
・チャールズ・テイラー『自我の源泉』(近代の道徳的想像力(善の像)の長期史です。ぶ厚いです。)
・バーナード・ウィリアムズ『羞恥と必然性』『Truth and Truthfulness』(道徳概念の系譜(virtues of truthfulness)やギリシア倫理の復元を通じ、道徳主義の歴史性を照射します。)