(前回の続き)
それでどうなったかといいますと、「自分の求めているものは、きっと伝統的な宗教の中にあるのではないか」と思い始めました。もうちょっと俗に言えば、自分は「救われたかった」のです。
41歳の時に父親が亡くなって、それまで縁のなかったお坊さんと話して『浄土三部経』など眺めるうちに、「老後仕事をやめたら、禅寺に通って座禅したり教会の聖書講読会に参加したりして、仏教かキリスト教か自分に合った方を究めていこう」と本気で思っていたわけです。
40代の半ば東京都から派遣されて早稲田の大学院に通っていたときに、生協でパーリ語から訳された1冊1万円くらいの『長部』(原始仏教経典)を買ったりしたことを思い出します。(何しろ10%引きでしたので、笑。)
(仏教はいわゆる「上座部仏教」、キリスト教は滝沢克己の神学に影響を受けました。これについては長くなるので、別の機会に論じることにします。)
しかし、私は自分の人生を賭けるにあたって「信仰に向かって飛び込む」ことができなかった、つまり目をつぶって信仰に飛び込むことができないくらい十分に、私は懐疑的な人間であったわけです。
いやそもそも、専門書を読んでからどちらを信仰するか決めようと考えている時点で、私は信仰に値しない人間であると言っても良いと思います。
「信じたいけれど信じることができない。」
なんか恋人に裏切られたみたいな状態なのですが(笑)、逆に言えばそれは、「理性的に生きることを引き受ける」決意でもありました。救われることを諦めたわけですから。
しかしその時そのことを自覚していたわけではありません。
そのような状態で書斎の哲学書の背表紙を眺める日々が続いていきました。(次回に続く。)