文化に関する話題はたまに入れていこうと思います。「英語」はともかく「倫理」と「芸術」はどこかで接点があるかもしれません。
先週高階秀爾が亡くなりました。ニュース記事にもありましたように、高階秀爾と言えば何といっても岩波新書の『名画を見る眼I ・II』が思い出されます。この2冊の初版(モノクロで『名画を見る眼』と『続名画を見る眼』でした)はそれぞれ1969年と1971年です。この時代はまだ新書も少なく、『日本の思想』(丸山 真男)、『羊の歌』(加藤周一)、『万葉秀歌』(斎藤茂吉)といった〈岩波新書の絶対名著〉が存在していましたが、『名画を見る眼』もそのうちの1冊(2冊)と言って良いでしょう。
この本が出版されるまでは、絵画の展覧会に行っても、「印象派は色彩がきれいだなあ」とか「ゴッホの筆致には激しい感情の起伏が読み取れるなあ」といった感想しか述べられませんでした。ところが『名画を見る眼』は絵画鑑賞が断じて受動的に美を享受する試みではなく、能動的な知的行為でなければならないことを教えてくれました。(もちろんイコノロジー的な作品分析はされますが、それは前面には出てきません。)
この小著は前書きもなく、いきなり始まります。最初に紹介される絵画はファン・アイクの「アルノルフィニ夫妻の肖像」です。そして『続』の最後に紹介されるのがモンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」です。なんとセンスのいいセレクションなのでしょうか。しかも本当に明晰な頭脳の持ち主のみが書きうる文体で、奇を衒うこともありません。
高階秀爾の本はいまでも何冊か私の本棚にありますが、ここではもう1冊『ゴッホの眼』(青土社)を紹介しておきましょう。これは最初『現代思想』という雑誌に連載されていました。当時の『現代思想』がいかに素晴らしかったかについてはまた機会を改めてお話したいと思います(あの浅田彰『構造と力』も『現代思想』連載でした。)。高階秀爾の連載が素晴らしく単行本を手に入れましたが、知らない間に手元になくなって、数年前にまた買い直しました。
冒頭の一文です。
ゴッホの悲劇は人間の魂の悲劇である。単に世に理解されぬ画家の悲劇というにとどまらない。他人に理解されぬ魂の悲劇なのである。
そして最後の一文。
最後に、愛する弟の手に抱かれながら息を引き取る時、ゴッホは、黄金の麦畑から青い天上に群れ飛ぶ烏のように、星の世界へ向って旅をして行く自分自身の魂を思い浮かべていたのではないだろうか。
当時アムステルダムや東京でゴッホの作品を体系的に鑑賞する機会に恵まれましたが、高階の本は自分に絵画を見るための新しい光を投げかけてくれました。いや高階のようにしか絵画を見れなくなっていたのかもしれません。
高階の記事を見て、1980年代冒頭(私の大学生時代後半です)、大江健三郎、中村雄二郎、山口昌男が編集代表をつとめた『叢書文化の現在』を思いだしましたが、今調べたら、高階が登場するのは第13巻だけなのですね。このシリーズの延長で『へるめす』も創刊されました。大江健三郎、中村雄二郎、山口昌男などこれらの岩波文化を牽引していた人たち・・・そして高階秀爾まで、みんな亡くなってしまいました。