このサイトでは本を紹介しながら、自分の意見を書いていきますが、細かい議論につきましてはご自分で書物を購入し、確認していただくようお願いいたします。
第1章ではまず、「我々の知覚や記憶の信頼性に対する2つの態度」が区別されます。
最初の態度は〈不可謬主義〉です。これは「間違いの可能性がほんの少しでも存在すれば、それは不確かなものである(例:デカルトの方法的懐疑)」とする立場です。しかしこれは、「日常的な信念の中で信じて良いものを区別する」にはあまりに厳しすぎるとして、この本では退けられます。
ふたつ目の態度は〈可謬主義〉です。これは「疑うべき理由がない場合、われわれは知覚や記憶を信頼してもよい」とする立場です。
*「してもよい」と言うより、「せざるをえない」という感じでしょうか。自分の知覚や記憶を大体において信頼しないと生きていけないですからね。ですからデカルトの懐疑は「方法的」と呼ばれるのでしょうね。
今までは、自分の知覚や記憶に関しての信頼性に関する話題でしたが、〈証言の認識論〉と呼ばれる議論があります。それは、「他人の証言は、それだけで何かを信じるための十分な根拠となるか」という議論です。ここでなぜ「他人の証言」が話題になるかと言いますと、我々の日常的な知識は他人の証言に依存しているからです(現代では誰も「本能寺の変」を実際に見た人はいないわけです)。
(〈証言の認識論〉についていい論文を見つけましたので、リンクを貼っておきます。)
この依存は次の2つに分類できます。
情報的依存(他人の証言から、自分の知らなかった情報を得る)
認識的依存(その情報が正しいかどうかについての判断を他人に依存する)
*この2つの区別は気が付きませんでした。確かに情報が高度になればなるほど、情報を入手しても自分で判断するのは困難になっていきますね。)
近代以降、カントを代表として「認識的に自律する(他人に依存しない)」ことが理想的と考えられてきましたが、筆者はそれに疑問を呈し、他人の証言への認識的な依存が不可欠であるとします。
*カントの「自律」はいわゆる〈定言命法〉に従って行動することだと思いますので、認識的自律とまったく同じではないと思うのですが。。。
その場合、ここでも2つの主義が区別されます。
1つ目は〈非還元主義〉です。これは「他人の証言を信じるのに証言以外の別の根拠は必要ない」とする立場です。
2つ目は〈還元主義〉です。これは「証言の正しさを、証言以外の正しさに還元する」立場です。わかりやすく言いますと、証言だけでは不十分なので、他の条件も必要だとする立場です。証言を信じるための他の条件を列挙してみましょう。
条件1 証言者の過去の証言が、多くの場合事実と一致していること。「あの人の言っていることはいつも正しいから、信頼できるよね」ということです。ここで問題になっているのは特定の証言ではなく、一般的な信頼性です。では特定の話題についての信頼性についてはどのような根拠が必要でしょうか。
条件2 証言が誠実になされているか(誠実性条件)
条件3 証言者がその証言の内容を知る能力を持つか(能力条件)
などが考えられます。
「証言論」についてはヒュームの議論が有名(なよう)です。ヒュームの証言論についての論文のリンクを貼っておきます。
それでは、ネット上で上記3条件は機能するしょうか。
条件1 ネット上では証言の一致条件を評価することが困難である。
条件2 ネット空間では誠実性をモニタリングできない。
条件3 証言者の能力に関しては評価の限界が存在する。
というように、3条件すべてネット上では、有効に機能するとは限りません。
* 以上が第1章のレジュメです。なかなか興味深い視点が提供されています。欲を言えば、「他人の証言」と「フェイクニュース」についての関係を正確に定義して欲しかったです。「他人の証言」は「フェイクニュース」のどれくらいの割合を占めるのか、あるいは両者の性質の違いなどについてです。
* 「証言の認識論」については以前も紹介いたしました『知識とは何だろうか』(ダンカン・プリチャード)の第8章でも詳しく論じられています。そこでは「還元主義」も扱われています。「証言の認識論」は「フェイクニュース」よりずっと根源的な哲学的問題だと考えられます。なぜなら「ナイル川はエジプトを流れている」というような私たちが得ている知識のほとんどは、自分で見たり聞いたりしたものではなく、他者の「証言」に基づいているからです。
* 同書で扱われているデヴィッド・ヒュームとトマス・リードについてはPhilosophy for Everyoneの4でいずれ検討する予定です。勉強すればするほどいろいろな問題がリンクしていることが分かり、ますます勉強が面白くなりますね。