『フェイクニュースを哲学する』に沿って、いろいろ考えていきます。細かい議論は本書を購入して理解を深めてください。基本的に「 」は本書からの引用、*は私のコメントです。
私たちは、フェイクニュースを排除するために、専門家の意見を参考にしようとします。
しかし専門家は本当に役に立つのでしょうか?第3章ではこれを検証します。
J・ハードウィグによれば、専門家に対する非専門家の信頼は必然的に無根拠になります。
その理由は以下です。
1 「 専門家が結論を導く際に依拠している前提を、非専門家が共有できていない」
2 「前提と結論のあいだの支持関係を、非専門家が評価できない」
3 「その論証に対する反証に、非専門家は馴染みがない」
* 要するにフェイクニュースの真偽を確かめる際に専門家に頼ろうとしても、私たちのような素人はそもそも頼るスキルがないということですよね。しかしこれでは、専門家の判断が正しいか正しくないかは専門家しかわからないことになり、実態に即していません。
ゴールドマンはハードウィグに反論し、非専門家でも専門家の主張を信じるための根拠を持ちうると主張します。
1 「(論証の仕方などを見ることによって)間接的なかたちではあるが、非専門家でもその専門家の 主張を信じる根拠をもつことができる。」
2 「その専門家が行った過去の証言の記録」で、主張を信じる根拠を持つことができる。
3 「専門家と〈問題となっている事柄とのあいだ〉の利害関係やバイアス」がない方が、主張を信じる根拠を持つことができる。
4 その意見に「同意する専門家の多さ」が、主張を信じる根拠となる。
(専門家が知的自律性を発揮している場合)
5 「他の専門家による査定」
1はテレビでの専門家同士のやり取りを見て、情報の提示方法など比較して、「何となくA先生の方が正しそうだなあ」と私たちが無意識に行っています。
2はその専門家の過去の証言が正しかったかどうか確かめることで、証言の信頼性が測れるということです。
3はその専門家の背後に利害関係者が絡んでいるかどうかチェックをすることなどを指します。どこかの会社の顧問やっている専門家は、その会社に関して公平であることは難しいですね。
4はその専門家が出した結論を、別の多くの専門家が証明していれば、証言の信頼性が高まるということです。「知的自律性を発揮している」ということは、別の専門家が自分なりの独自の方法で元の専門家とは「別ルートで」その結論を検証していることです。
5の代表的な例として、本書では「査読」が挙げられています。査読を経た証言は一般的に信頼性が高まります。まあ「STAP細胞」みたいな事件はありましたが…。
私たちはすべての分野で専門家になるわけにいかないので、専門家の〈知〉を参照せざるをえませんが、ただ盲目的に専門家を信じればよいという話ではありません。そのため、専門家の〈知〉を参照しつつも「知的に自律しているとはどういうことなのか」がこの章の最後で改めて問われます。
そして自分の知的な限界を正しく自覚することが「知的謙虚さの徳」とされます。「知的謙虚さの徳」を備えた人とは「判断を委ねるべき場面で、判断を委ねるべき相手に、きちんと判断を委ねることができる」人であると定義されます。
一方、自分の知的能力を過剰に低く見積もることは「知的に隷属している人」として退けられます。
*しかしまあ、「ここは専門家に任せた方がいいなあ」などと判断できるのは、ある程度専門知識がある場合に限るという面もあり、「素人ほどわかったふりをする」ということもあるのではないでしょうか。
*既存の専門家への信頼が揺らぎ、知的なポピュリズムが起きると専門知は死ぬことになります。
(コロナのワクチン騒動では特にこのことが顕著にあらわれました。)
それを避けるシステムの構築が提案されるところで、第3章は終わります。
*私たちは「知識を権威に頼りすぎではいけない」ということをずっと警戒してきましたが、そのことが安易に専門知を軽視することにつながってきていると思います。
大衆のとびつきそうなフレーズで簡単に専門知を否定してしまうところに〈知的なポピュリズム〉は起こります。要するに本章で検討されてきた「知的自律性」が放棄されて、フェイクニュースが(何も思考しない)反エリート主義と結びつく事態が生じているのです。
*上記のような事態を回避するために、本章では「専門知のあり方」について新たな提案がなされますが、ネット時代における「専門知を受け取る私たちの知の享受のあり方」についても、考えていかなければならないと思います。