フェイクニュースを哲学する』に沿って、いろいろ考えていきます。細かい議論は本書を購入して理解を深めてください。基本的に「  」は本書からの引用、*は私のコメントです。

第4章の表題は「マスメディアはネットよりも信じられるのか」です。

まず〈従来のマスメディアによる情報のフィルタリング〉が問題として取り上げられ、
マスメディアは〈真理を多く、誤りを少なく〉という役割を果たしているとは必ずしも言えないことが示されます。インターネットによる〈情報の民主化〉についても紹介されます。

*個人的な意見を言えば、ケース・バイ・ケースですね。でもネットの雑多な情報をうまく取捨選択すれば、マスメディアと同じ、あるいはそれ以上正確な情報を得られる場面も多いのではないでしょうか。

*新書なので仕方ないのですが、ここで「真理とは何か」という議論をえんえんとしないと、本当は哲学とは言えないのではないかと思います。〈真理を多く〉と言っても、その真理がどう定義されるかによって、結果は大きく変わります。

次に、信頼できるマスメディアとは何か、その条件がリストアップされます。

1「ジャーナリストは単に他人の証言を右から左へ伝達する媒介項ではない」
*ジャーナリストには知的自律性があり、自分(または会社)の判断で伝えるものの取捨選択をしているということです。
2「職業ジャーナリストには真理へのインセンティブが働く」
3「報道内容の事前チェックと事後チェックのシステムの存在」
*ジャーナリズムには、ネットと違ってきちんとしたファクトチェックのシステムがあるということです。

さらに上記への反論も列挙されます。カッコ内は引用者の注です。

1「ジャーナリストが知的自律性を発揮することについては、(恣意的フィルタリングを行うと)それはむしろ情報を歪める懸念ともなりうる。」
2「真理への外発的インセンティブに関しては、ジャーナリストの所属先や契約先がどのような方針をもつのかに依存する。(中略)また真理への内発的なインセンティブに関しても、業界としての倫理綱領がすべてのジャーナリストに共有されているわけではない。」
3「組織としても、業界としても、自律的なチェックシステムが機能しているのかについて疑念は残る。」(チェックするシステムがあっても、組織のメンバーが身内に甘かったりする例が挙げられています。)

*どうしてもマイナス面の方に「うんうん」と頷いてしまいます。ここで筆者は「マスメディアという大きな括りではなく、メディアを細分化して評価する」ことを提案します。マスメディアといってもそれぞれあり方が異なり、それらを細分化して評価することで評価も変動するからです。

*この問題に関してよい論文がありますので、紹介しておきます。『メディアと倫理

*私は「メディアを細分化して評価すること」とは逆に、個人が情報を収集する際に、様々なマスメディアを同時に参照することで、上記1~3のマイナス面が軽減されると考えます。

*前にも書きましたが、各新聞社や放送局などはそれぞれに「報道倫理」の規定があると思いますが、それをある程度公開することは不可能でしょうか。それがわかれば私たちは数多くのマスメディアから、自分に合ったものを選択することができます。

次に、マスメディアによる情報のフィルタリングにおける「意見の多様性」について議論されます。「意見の多様性は本当に価値があるのだろうか。」
「ここでは問いたいのは、多様性の倫理的価値ではなく、認識的価値である。」

この多様性の認識的価値で、最初に言及されるのが「比較が持つ価値」です。多様な意見があった方が、それらを比較することで、今まで見えてこなかったものが見えてくるというメリットです。

次に「偏見を除去するという認識的利点」が挙げられます。つまり情報を探究する人々の属性が多様であればあるほど、その問題についての先入観を除去することに役立ちます。

逆に「意見が多様である」ことのマイナス面にも言及されます。

*実際問題として、私たちは時間の制約もあり、無限に多様な情報に接することはできないのですから、多様性がコンパクトにまとまっていることも、大切な要素だと思います。マスメディアは〈コンパクトな多様性〉を提示できるような(インターネットにはない)新たな形式を作り出すべきなのではないでしょうか。

*ここで話題はまたインターネットに戻ります。インターネットはマスメディアと異なり、本当に情報のフィルタリングが除去された媒体なのでしょうか。筆者は必ずしもそうは言えないと指摘します。インターネットは「・・・ある特定のアルゴリズムを備えたエンジンが行動パターンを学習し、私(利用者)の好みに近い情報が優先的に表示される仕組み」だからです(「フィルターバブル」)。

インターネットでは
1「一人ひとりが孤立している」(他者と情報交換する機会がない)
2「フィルターバブルが見えない」(どういうフィルターがかけられているか可視化できない)
3「そのような状況(どういう情報に接するか)を自分で選択したわけではない。」(アルゴリズムで選ばれたコンテンツを視聴しているのであり、自分で選択したわけではない)
という点で従来のマスメディアと異なると筆者は指摘します。(カッコ内は引用者の注)

そして「知的自律性を十全に発揮するためには、それぞれのプラットフォームでどのようなフィルタリングが行われているのかが公開されており、そのフィルタリングの仕方を自分で選択できる必要がある」と指摘されます。

*情報機関がアルゴリズムを公開したり、利用者がそれを選択するというのは理想論で、実際には無理だと思います。月並みな感想ですが、やはり従来のマスメディアとインターネットを併用していく以外に方法はないのではないでしょうか。

この章の最後で「エコーチェンバー(echo chamber)の問題」が検討されます。これは、SNS上で自分と似た興味関心を持つユーザーとつながることで、同じような意見ばかりが返ってくる状況を指します。

フィルターバブルとエコーチェンバーの問題は総務省のサイトに載っています。

さらにこれらに関連して、「確証バイアス」についてふれられています。これは自分の考えが正しいか否かを確かめる際に、自分の意見を確証するような証拠ばかり探してしまうことを言います。あるコミュニティに属していると、同じバイアスを持っている人たちに囲まれているため、自分の見解が「そうだよね!」とますます支持される、という錯覚に陥ってしまいます。このような状態を筆者は「認識バブル」と名付け、さまざまなメディアに触れることでそれを避けるように提案しています。

*様々なメディアに触れることも大切ですが、私は「自分の意見と異なる人がいるコミュニティに属すること」がさらに重要なことだと考えています。メディアと違って、人間はあなたに〈反論〉してくれるからです。

*確証バイアスは認知バイアスの一種とも考えられます。
情報を正しく選択するための認知バイアス事典 行動経済学・統計学・情報学 編

*私くらいの年齢になりますと「健康問題」が日常会話にしばしば登場してきますが、そのような話題においても「確証バイアス」の問題が常に出現しています。たとえば、ある人が、閉じられたコミュニティにおいて、閉鎖され孤立した情報源にしかふれず、「Aという食品は身体に良いが、Bという食品は身体に悪い」という信念を持つに至ったとします。すると、その人は、自分とは意見の異なる説を〈陰謀〉だといい、自分の意見はその閉じたコミュニティによってますます強化されていくのです。

*たいていそういう人たちは「真面目」であり、「善意」から語っています。そして善意ほど相手にとって迷惑なものもないのです。

*哲学においては、自分の意見がいくら正しいと信じていても、常にそうではないのではないかと〈懐疑〉する姿勢が大切です。それは優柔不断なのではなく、逆に強靭かつ柔軟な思考をもたらすものです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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