岩波新書『フェイクニュースを哲学する』をもとに考察していきます。議論の細かい点につきましては直接同書をご購入いただきご確認ください。文レベルでの「  」は、基本的に本書からの引用部分です。

第5章の紹介をします。議論されるのは以下の問いです。
「フェイクニュースはしばしば陰謀論と結びけられる。」
「本当に陰謀論は信じてはいけないものなのなのだろうか。」

哲学はまずは定義でしたね。ここでも「陰謀論の定義」が問われます。まずK・ポパーの定義が紹介されます。
「彼は、陰謀論を神による説明が世俗化されたものとみなす」、つまり
「社会で起こるあらゆる出来事をごく一部の個人や集団によるものとして説明する」

*現実に起きる事象はいろいろな原因が複雑に絡み合っています。それを単一の原因に単純化するとある意味わかりやすくなります。それゆえ陰謀論の信用は低下するのです。

*ところで、どうでもいい話ですがこのポパーの定義が載っている『推測と反駁』は、〈Googleの選ぶ思想書100〉の12位にランキングされている有名な本ですが、邦訳が9,020円もするので、買うのをためらっています(笑)。

C・ピグデンはポパーの意見に直接反対したわけではありませんが、「社会で起こるすべての現象を陰謀の産物であるとみなす人などいない」と言います。

*しかし仮にそうだとしても、「一部の人が信じる陰謀論は本当に信じてはいけないのか」という問いをたてることは可能だと思います。

またコーディによれば、「陰謀論という言葉には、あらかじめ否定的な価値評価が含まれている」とされます。

*コーディの言うことはその通りだと思いますが、さりとて「陰謀論」を別の名前、たとえば「事実予想」と変えてしまっては、もはや「陰謀論」とは別のものについての議論になってしまいます。ですから「陰謀論」は「陰謀論」と呼ばれている間は信頼性が低いのは仕方ないと思います。

歴史的に正しいと判明してきた陰謀論も存在するとされます。最近では、スノーデンが「アメリカによりインターネットと電話回線の傍受が行なわれていたことを明らかにした」という例がそれにあたります。

*しかしそれならば、スノーデンの説は陰謀論と呼ばれてきたが、実際には陰謀論ではなかった、と言えば済む話です。
ですから、正しい問いの立て方は「陰謀論と呼ばれているものの中にも、陰謀ではないものがあるのではないか」だと思います。

それでは陰謀論をどう捉えれば良いのでしょうか。筆者は「必要なのは陰謀論を(科学のような)ひとつの理論として捉えること」を主張します。そして「陰謀が実際に存在している可能性がどのくらい高いのかを調べる」のです。

*ここでも筆者の「陰謀論」を「陰謀論と呼ばれているもの」に書き変える必要があると思います。コーディの言うように「陰謀論」と言い切ってしまうと、もはやそれは正当に評価されないからです。

陰謀論が「社会における開放性を維持するのに役立つ」と主張する論者もいます。それにもかかわらず現状では、何かが陰謀論とみなされた瞬間に真偽を問う必要がないとされてしまいます。コーディーはこれをM・フリッカーの言う〈認識論的不正義〉とみなします。

*繰り返し述べているように本章の議論は「陰謀論」と「陰謀論とみなされているもの」に区別しなければいけないと思います。正しくは、〈陰謀論とみなされているものの中には、社会における開放性を維持するのに役立つものもある〉ではないでしょうか。

この後、「歴史学における陰謀論研究」や、「陰謀論に陥る心理的傾向性」が論じられますが、これは割愛します。
実際に書籍でご確認ください。

第5章の最後で、陰謀論の不合理性を主張したQ・カッサムの説が紹介されます。カッサムが不合理だとみなす陰謀論は、

1思弁的(証拠にではなく、推測に基づく)
2逆張り(真相は世間で言われていることとは違う、と考える)
3秘儀的(秘められた真相を自分だけが知っていると考える)
4アマチュア的(専門知識をもっていない)
5前近代的(近代の科学的世界観以前の世界観である)
6自己封鎖性(陰謀に反する証拠を出されても、それも陰謀とみなしてしまう)

本書では陰謀論に対する3つの対処法が示されますが、これもは割愛します。

第5章の後、終章で本書の総まとめが述べられます。

本書では他人の証言、うわさ、専門家、陰謀論を題材に様々なことが検討されてきたわけですが、この4つの要素が並列されるのか、あるいは階層構造をなすのか、フェイクニュースとどのようなかかわりを持つのかという点には言及して欲しかったです。

本書の最後で著者は
「常識を疑う過程で検索によってたどり着いたネット上の「真実」に安んじてしまう態度は、本来の意味での懐疑的精神を体現しているとはいえない。そこからさらに、自分が手に入れた「真実」の妥当性に疑いを投げかけていく必要がある。」
と指摘しますが、これには完全に同意します。

いったん正しいと思ったことに疑いを投げかけるのは、真理を愛する態度なのです。それなのに自分の手に入れた「真実」を絶対視して、思考を停止してしまう人のなんと多いことでしょうか。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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