ピーター・シンガー『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ』(NHK出版)を2回にわたって紹介する・・・はずでしたが、膨大な分量のため今回はPart3のみの紹介とします(Part4はいつになることやら)。
シンガーの発言は「 」の形式で引用していきますが、細かい議論につきましては直接同書でご確認ください。
Part3 彼らを動かしているもの
第7章 愛がすべて?
効果的な利他主義者について、シンガーは「まさしく彼らが社会規範を超えた行動、時には大幅に逸脱した行動をしている」と述べます。たしかに私も彼らに尋常ならざるものを感じます(シンガーに対しても感じますが)。しかし、彼らをそれほどまでに駆り立てる原動力は何なのでしょうか?それははたして〈愛〉なのでしょうか?
ここでデイビッド・ヒュームの「人類愛といった人間の心にある情熱は、個人の資質や、便益や、自分との関係から切り離しては存在しない。」という言葉が引用されます。この「自分に関係する」ものへの愛は、進化論の立場からも裏付けられます。また霊長類の社会的行動を観察しているフランス・ド・ヴァ―ルも、〈愛〉はあくまで自分が属するグループ内に限ったものであると言います。
ヒュームの考えは、私たちの〈世間知〉によく合致しているように思えます。しかし、効果的な利他主義者は、上記の考え方を否定します。なぜならそのような利他主義は「普遍的」ではないからです。
続いてシンガーは「効果的な利他主義者を動かしているのは、愛ではなくて共感」なのかと問いますが、その際に共感の定義を「他者の気持ちを理解し共有する能力」とし、〈理解〉と〈共有〉を厳密に区別することを要求します。そして心理学で共感の測定に使われる、「対人反応性指標の4つの評価項目」を参照しながら、共感の認知面と情緒面(心で共感すること)の区別も紹介されます。
本書のこの部分〈理解〉/〈共有〉と〈認知面〉/〈情緒面〉がどの程度重なり合うのかは、文面からは必ずしも明確ではありませんが、それはともかくシンガーは次のように述べます。
「効果的な利他主義者には、顔の見える人に対して感じるような強い情緒的共感は必要ありません。」さらに情緒は倫理的判断においてマイナスになる可能性さえ指摘した上で、有名な〈トロッコ問題〉を例に挙げながら、「効果的な利他主義者は数字に敏感で、救える命の一人あたりのコストや、その苦しみが減った年数を気にかけます」と述べます。
「彼ら(効果的な利他主義者)が利他的に行動するのは、そうでない人よりも情緒的な共感力が強いからでない」のです。
わかりやすく言いますと、彼らが利他的行動をとるのは「貧しい人々がかわいそうだ」という情緒的理由からではないということですが、それは利他主義者に「かわいそうだという感情がないこと」を意味しているわけではありません。
利他主義の能力の源泉について「数字を重要なものとして認識する能力は、共感ではなく理性から生まれる。」とシンガーは述べます。
この考え方に対するヒュームの反論は例によって意地悪く、人間の本質を突いています。
「どんな行動も情熱や欲望から始まるもので、理性は決して行動のきっかけにならない。」
ヒュームによれば理性は感情の奴隷なのです。
これに対してイマヌエル・カントは『実践理性批判』において「わが内なる道徳律こそが理性の法則」であると主張します。しかしシンガーはカントが「理性の真理が、経験則に傾きがちな人間の感情をどう喚起できるのか」について説明していないとします。ヒュームやカントをこんなに簡単に要約していいわけはありませんが、これについては今回は言及しません。
ここでシンガーは理性が利他的な行動を導く基本原理として、ヘンリー・シジウィックの以下の動機体系を紹介します。(ヘンリー・シジウィック(Henry Sidgwick)はその重要性にもかかわらず、あまり知られておらず、主著のThe Methods of Ethicsも(おそらく)邦訳されていません。)
原則1「宇宙の視点から見れば(中略)、ある人間の利益は、(中略)ほかのどの人の利益とも重要性においてなんら変わらない。」
しかし、私たちはどうやって宇宙の視点に立てるのでしょうか? 私のこの疑問は素朴な疑問ではありますが、本書を読み進めていきますと、哲学者のバーナード・ウィリアムズの疑問と同一であることがわかります。
原則2「理性ある存在としての私に、(中略)、一部にとっての善ではなく全体にとっての善を目指す義務があることは明らかだ。」
この2つの原則から、以下の〈慈愛の原理〉が導かれます。
「人はみな、他者の利益を自分の利益と等しく尊重する倫理的な義務がある(以下略)。」
原則2は原則1に基づいて導かれるわけですから、この原理が正しいか否かも、にわかには判定がくだせないと思います。シンガーの論証は(論証はこの本の意図ではないので仕方ないですが)性急だと思います。
(それはともかく)シンガーは、このシジウィックの原理が「理性の命令」を呼び起こす、すなわち効果的な利他主義への行動を促すはずであると述べます。
シンガーは理性を重視して、感情を否定しているわけではありません。「全体のための善行が大切だと自覚しているからこそ、情緒的反応が呼び起こされる」とし、理性は感情の奴隷だというヒュームの考え方を退けるのです。
第8章 理性の力
バーナード・ウィリアムズは「人間は「宇宙の視点」を持てない生き物だ」と言ったそうですが、これはまさに第7章を読んだときに私が感じた感想です。これに対してシンガーは「効果的な利他主義者は、バーナード・ウィリアムズが不可能だと思ったことを実践しているようです。」「(中略)個人的な思い入れから、自分を切り離すことができているのです。」とあっさり経験談を書いていますが、常人は「自分の「傾向や好みや愛情」から独立した視点で、自身の生き方を評価するような、理性の力」をそう簡単には持てないと思います。
ごく普通の人間が「社会規範を超えた行動」まで飛躍することは容易ではありません。この間隙を埋めることに本書が十分に成功しているとは思えません。世の中には立派な人がいるのだなあ、という感想を持てたとしてもです。
次に、進化と利他主義の関係について、「進化がなぜ理性の力を選択するのか、簡単に説明がつく」
とし、「進化論のスパンドレル」が論じられますが、少し説明不足で、私にはよくわかりませんでした(ので割愛します)。
さらに本書の冒頭でも論じられた〈自分の子供と、他人の子供〉問題が再び論じられ、効果的な利他主義者が他人の子供も同等に尊重できる理由として〈数字への興味〉、〈抽象的(分析的)思考能力〉があることが挙げられています。
たしかに自分のこどもを〈高度に抽象〉しないと、効果的な利他主義のような発想は出てこないです。しかし抽象化することによって失われるものもあるのではないか、というのが私の意見です。
さらにシンガーは、ジョシュア・グリーンの「(倫理的判断をする時の)二十過程理論」を紹介して、効果的な利他主義者の思考プロセスを説明しています。それは次のような理論です。
倫理判断を写真撮影にたとえますと、以下の異なる判断のプロセスが存在することがわかります。
「オートフォーカス」(なにかがおかしいという直感的判断。自然選択によって進化してきた。)
「マニュアル」(直感を脇に置いた、分析的な判断。論理的、功利主義的である。)
分析的・論理的であると言っても、効果的な利他主義者は自分の情熱を抑えているわけではなく、むしろ効果的な利他主義に対して情熱的である、とシンガーは言います。
情熱の対象が〈利他的行動そのもの〉へ向かっているということですね。情熱がないのではなく、意思決定に高度な抽象的思考能力が働いているだけなのです。ではなぜ今この運動が注目されているのでしょうか。
シンガーは「二十世紀の比較的短期間に、人間の知的能力は目に見えて向上しています。」と指摘します。そして、スティーブン・ピンカーがこのことを「倫理におけるフリン効果」と呼んだことを紹介します。これに関しては、本書では論証不足で私にはわかりませんので、詳細は割愛します。
第9章 利他主義と幸福
効果的な利他主義者が犠牲を払っているかどうかを判断するため、〈収入と幸福度の関係〉が検討され、収入と幸福度の間にはそれほど相関がないことが示されます。そこで、自分のためにお金を使うという「快楽の踏み車から抜け出す」生き方が示されます。
ここで効果的な利他主義者のものの考え方を説明するために、リチャード・キーシェンによる「合理的な自尊心」という概念が紹介されます。シンガーは「自尊心の強固な土台となるのが倫理的な生き方」であるとし、この生き方は、バーナード・ウィリアムズが言う「やりたいことをあきらめ、尊厳の喪失を意味するようなこと」ではないと言います。むしろそういう生き方は「アイデンティティの核にあるものの表現」であるとするのです。
この章の最後でシンガーは「もし効果的な利他主義者が犠牲を払っていないとしたら、そもそも利他主義者と言えるのでしょうか?」という問いを提起します。答えは以下です。
「自己犠牲は、必ずしも利他主義に必要な要素ではありません。」
トマス・ホッブスは「人は必ず自分の利益になることをする」と言いました。ここで、自分がいい気持ちになるために、常に貧しい人に施しを続ける〈仮想ホッブス〉は、もはやエゴイストとは言えないことを指摘し、「利己主義と利他主義のあいだにはっきりとした境目がなくなってしまう」と結論づけます。
他者への思いやりから生まれた行動ならば、〈そこに自分の利益が含まれているか否か〉は問題ではなく、利他主義と呼んでよいという〈結果主義〉を採用します(カントならこの考えを否定するでしょうが)。
Part3まとめ:正直読み進めるのが苦しかったです。私はどちらかと言いますとヒュームやウィリアムズの立場だったからです。さらに、詳細な分析なしに、次から次へと〈効果的な利他主義〉を肯定する論証が連ねられているからです。
このパートで述べられていたことを理解できるとしても、効果的利他主義よりも「やりたいこと」がある人間にとって、これは〈犠牲〉とはなりえないのでしょうか? 誰もがシンガーやマッカスキルのような抽象性と自尊心を持つ必要があるのでしょうか?
このような検討課題は残りますが、教わることも多かったように思います。自分にないものを持っている人からは学ばなければなりません。前回紹介したドーキンスの言葉の通り、「不快だからこそ読む価値がある」のです。