児玉聡『ミル『自由論』の歩き方』を2回にわたって紹介しながら、「自由」について考察していきたいと思います。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。
第一講 J・S・ミルの生涯
ミルはテイラー夫人と出会って20年の間いわゆる「不倫関係」にあり、相手の夫が亡くなって二人は結婚しました。「不倫が社会的に許されるのか」についてミルがどう考えていたか、個人的には大変興味があります(いや単に学問としてですよ)。書いていて思ったのですが、不倫って「社会的に」というより「内面的に許されるか」の方が、より問い方としては正しいような気がします・・・ということで第1章は通り過ぎます。
第二講 多数者の専制と個人の自由(『自由論』第一章)
「本書のテーマは、いわゆる意志の自由ではない。本書で論じるのは(・・・)市民的な自由、社会的な自由についてである。」
〈意志の自由〉もそれはそれで大変面白い問題ですが、ミルが論じる「市民的な自由」「社会的な自由」は、「自由を法律などで制限すべきか」という、より実践的な問題にかかわります。
「つまり、個人の行動や言論の自由の限界を定めようとしている」
SNSでなら何を言ってもいいのか、という問題があるように、現代でもこれは非常にアクチュアルな問題ですね。
「専制から自由を守るというような発想は民主主義において必要ないと言えるか」
この問いに対するミルの答えは、「自由を守る必要がある」です。民主主義においては、専制などもはや存在しないと思いたくなりますが、ミルはその先を考えています。
「人民は人民の一部分を抑圧したいと欲するかもしれないので、それに対する警戒が、(・・・)、やはり必要なのである。(・・・)今では政治について考えるとき、「多数派の専制(the tyranny of the majority)」は一般に社会が警戒すべき害悪のひとつとされている。」
民主主義には基本的に「多数決の原理」が働いています。「マジョリティの支持があれば、それは民意なのだから正しいことなのだ」という考えです。ここで浮上してくる「マイノリティの抑圧の問題」こそが「多数派の専制」なのです。めちゃくちゃ現代的な問題ですね!
ミルは語ります。「社会による抑圧はたいていの政治的な圧迫よりもはるかに恐ろしいものになる。(・・・)日常生活の細部により深く浸透し、人間の魂そのものを奴隷化して、そこから逃れる手立てをほとんどなくしてしまうからである。」
なんと鋭い指摘でしょうか。不可視の抑圧は、それが周囲から不可視であるだけでなく、ひょっとすると抑圧されている本人にも不可視であるがゆえに危険なのです。
ではいったいどのような時に自由は制限されなければならないのでしょうか。ミルはここで「他者危害原則(harm principle)」について述べます。「文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、他の人々に危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。(・・・)すなわち自分の身体と自分の精神に対しては、個人が最高の主権者なのである。」
他の人に危害が及ぶ可能性があるときにのみ、自由を制限すべきであるという主張です。基本的にはもっともな主張だと思えますが、「他の人に危害が及ぶ可能性がある」と、誰がどのような基準で判断するのでしょうか。「私は(あるいは誰かが)危害を受けています」と発言することは簡単にできてしまいます。それだけで他者の自由を規制する根拠になりうるのでしょうか。ミルの「自分の身体と自分の精神に対しては、個人が最高の主権者である」という主張も、必ずしも全面的に賛成できるわけではありません。
「本人の利益になるからという理由で、行為を強制したり禁止したりすることは、(ミルはこの語を使用していませんが)paternalismと呼ばれます。」ミルは子供や未開の人々は例外としています。
これも原則的には正しいと思うのですが、親が子供に「本人のためになるから」という理由で何かを強制することは正当なことなのでしょうか。ミルの目のつけどころと、一般的な見解には肯けることが多いのですが、個別の判断をしようとするとすぐさま疑問が生じます。大体ある行為を強制と感じるか否かは、両者の人間関係や環境要因に左右されますので、一元的に法で「強制」と判断するのは難しいと思います。
「個人の自由そのものに価値があるというよりも、個人に自由を認めることによって長い目で見て何が得られるのかが問題になっています。」
「ミルは自由主義(リベラリズム)を功利主義によって基礎づけていると言えます。」
私は「自由そのものに価値がある」と考えますのでミルと意見が異なりますが、当然功利主義的立場もありえると思います。しかし例によって、功利主義の「快楽の総和が苦痛の総和よりも大きくなる」と言う場合の、「快楽とは何か」また「誰が快楽を測定するのか」という問題は残ります。
個人の自由の三分類
ミルは人間の自由にふさわしい領域を以下の3つに分類します。
「思想や言論の自由」(これは第三講で検討されます)
「行為の自由」(これは第四講以降で検討されます)
「団結の自由」これは「他の人に迷惑をかけないかぎり、(・・・)どのような目的のためであれ団結する自由」を指します。これはイギリスにおける同性愛行為の非犯罪化にも影響を与えました。
この後(京都大学の)学生の意見などが検討されるのですが、それを読みながら感じたことを書きます。マイノリティである(であった)同性婚を支持する人が増えて、同性婚を認める法律が可決されたとします。それはマイノリティの人にとって朗報ではあると思いますが、マイノリティがある程度マジョリティになったからこそ認められたわけです。しかし、「マイノリティの権利とはそれがある程度マジョリティにならないと認められないのかどうか」については議論の余地があるように思われます。
また「個人の自由を認めると社会の紐帯や伝統が崩壊してしまう」という主張は、たとえば「夫婦別姓」の例で考えてみても、「社会の紐帯の度合いをどういう指標で測定するのか」、「夫婦別姓が社会の紐帯を破壊するというエビデンスはあるのか」、そもそも社会の紐帯というものがいわゆる「家制度」だとしたら、「そもそもそのような紐帯を維持する必要があるのか」についても考察する必要があるように思います。
第三講 言論の自由(『自由論』第二章)
現代では「言論の自由」は当たり前の権利のように考えられていますが、ミルは辛辣です。
「(言論を統制する強制力は、)世論に逆らって行使されるときも有害だが、世論に合致して行使されるときは、もっと有害だ」「民主制でも君主制でも言論の抑圧は同じくらい有害である」のであり、「たとえ民意の発露であるとしても、少数者の言論を抑圧することは許されない」のです。
ここで児玉先生は、トランスジェンダーに関する翻訳書が抗議により出版中止に追い込まれたという、日本の最近の事件を取り上げます。ミルに従って考えると、ここで出版中止に追い込まれた出版側の(抑圧された)意見は、それが「正しい場合」、「正しくない場合」、「半分くらい正しい場合」の3つに分類されます。
「抑圧されようとしている意見が真である場合」
「ミルは、こういう場合、意見の表明を抑圧する側(抗議する側)が(自分たちの)「無謬性」を仮定していると言います。」(カッコ内は引用者注)
出版中止を訴える側が、自分は絶対に間違っていないと考えるがゆえに、相手を抑圧する(出版中止を要請する)権利があると考えるということです。
抑圧する側が自分たちの無謬性を疑わないという点に関しては、本当にそう思います。そういう人たちはまず「自分たちの考えている前提は絶対に正しい」という信念から発言するので、すべからく抑圧的なのです。しかもこの傾向は、その人が属しているグループの人たちにより、さらに強化されるのです。(このことは、以前「フェイクニュース」の投稿のエコーチェンバーのところで書きました。)
ミルは「人間はみな可謬的であり、(・・・)真理の発見のためには他の意見を抑圧せずに開かれた心で聞かないといけない。」と述べます。
偽である場合
では抑圧されようとしている意見が本当に間違っていた場合、どうなるでしょうか。さきほどの例で言いますと、出版される予定のトランスジェンダーの翻訳本が事実誤認に満ちていたらどうなるでしょうか?ミルは「誤った意見にもやはり重要な価値があるのだ」と述べて、言論抑圧に反対します。なぜなら「正しい意見を持っていたとしても、異論を受けてその根拠を示すという訓練をしていなければ、生き生きとした真理が持っている勢いが失われてしまう」からです。
ミルはラジカルです。「自分が言いたいことしか知らない人は、ほとんど無知に等しい。」
反論を検討できなければ、迷信にとらわれているのと同じ、だそうです。「迷信」は「宗教」と言い換えてもいいでしょう。どちらもは絶対に反論を許容しないという点で共通しています。
ミルはさらに重要なことを言います。
「(反論は)それを本当に信じている人から直接聞く必要がある」というのです。
普通我々は自分の意見と異なる意見を持つ相手から、耳の痛い批判を聞くことを避けようとします。しかし、あえてそういう人たちと向かい合うことが大切なのです。そういうわけで「ソクラテスの問答法の有用性」が示されます。ここでは、今流行の論破が目的なのではなく、真理を探究することが目的です。逆に言うと、いつも自分たちのグループ内でディスカッションしている人たちは、真理であったはずのものが教条主義的になってしまいます。
半真理(half truth)の場合
抑圧されようとしている意見の一部には正しいことも含まれている、というような場合です。半真理ということで誤解を避けておきますが、「ミルは(・・・)真理の相対主義とか懐疑主義の立場をとっていない」のです。
「ミルは確たる真理というものが(・・・)政治や道徳の領域にもあると前提した上で、(・・・)言論の自由を認めるべきだと主張している」のです。
前の例で述べますと、問題になっている本の出版を推進するか、それに反対するかそれぞれ一理あるけれども、正解はないから好きにすべきだ、という相対主義を取るわけではないのです。どちらが正しいか正解はあるのだけれども、「反対意見を聞くことが真理の探究には不可欠であり、そのためには言論の自由が欠かせない」と主張しているのです。
本書ではこの後、「ALSの患者が安楽死を望んで、SNSで医師にそれを依頼した事件」が挙げられ、「相手の属性・状態を、命という非常に重いものと比較して、それに劣ると指摘するのは犯罪的だ。ある状況を指して、「自分ならこうしたい」と公言することは、常に他人を傷つける恐れがあることを意識すべきだ。」という立岩真也の発言について、これはミルの言う他者危害に当たるか、という非常に重い話題が議論されます。この議論は個人的には非常に興味があり、詳細に論じてみたい気持ちはあるのですが、軽々しくコメントするにはあまりにも重い話題ですので、立岩氏の文が書かれたコンテクストや立岩氏の基本的な考え方を学んだ上で、今後機会があれば取り上げてみたいと思います。ここでは法による規制と自分の発言に責任を持つことは異なる(道徳として守る)ということだけ確認しておきたいと思います。
前半部分全体の感想:
最近特にSNSにおいて、「ガザにおける虐殺反対」や「夫婦別姓推進」についての書き込みを目にします。個人的には私も当然虐殺には大反対ですし、別姓も希望する人には与えられるべきだとは思います。またその意見を表明することも正当に思えます。
しかし、SNS上での書き込みのほとんどは(字数の限界もあるとは当然思いますが)、反対意見を聞くという態度が取られていません。イスラエルにはイスラエルの論理があるはずですし、仮にそれがすべて間違っていたとしても、それを聞くべきです。夫婦別姓に反対する人たちが固執する「家制度」にしても、それを古い価値観と一蹴せずに、それを聞くべきです(まあなかなかそうした人たちと「直接」話すのは難しいとは思いますが。)そうした過程を経ない発言は、思想的には「無効」なのです。そしてその発言が過激になればなるほど、それは単なるアジテーションになっていきます。