職場などで「手が足りない」と言ってはいけない、という意見があります。
「マンパワーが足りない」と言うべきなのだそうです。
今回はこれが正当な意見なのかどうか、考察してみたいと思います。
この表現を使うべきでないという根拠は、おそらく「手が足りない」という表現が、先天的もしくは後天的に手を失った人、もしくは失われた手を想起させるからだと思います。
ここで、今ではあまり使われなくなった「ノータリン」という用語と比較してみたいと思います。
「ノータリン」とは「脳味噌が足りない意。人をののしっていう語。ばか。阿呆 」という、ここに書くのもためらわれるような差別用語です。ここでは「脳=知性」であり、知性が低いことを差別しています。
一方「手が足りない」は「人手が不足していること」を意味します。ここでは「手≠hands」です。
手が労働力の比喩であることが明らかであるのに、「手」をリテラルに解釈し差別に当たると考えることは、私自身は正当ではないと考えます。(囲碁の用語で、活きていない石を「目がない」と言いますが、「手が足りない」が許容されないとすれば、囲碁用語のほとんどは変更を余儀なくされるでしょう。)さらに「マンパワーが足りない」と言い換えたとしても、なぜ「ウーマン」ではなく「マン」なのか、という問題も残ります。
私が注目するのは、そのような表面的な言葉の揚げ足取りよりも、誰かが「人手が足りない」と表現する時、「人」を人間ではなく「労働力」という「もの」として見ているという点です。ここには「あなたでなければだめだ」という人格はありません。
私はこれを批判したいのではありません。私たちは容易に「人を〈もの化〉する」のだと言いたいのです。
人間を「もの」扱いすると言うと、最近の性加害事件を連想しますが、これは人格のある人間の人格を抜き去って、自分の欲求の対象として物体のように扱うということです。このような「もの扱い」が許されないのは当然です。
一方「もの扱い」を「客体化する」という広い意味においてとらえると、私たちは他の人間の人格を抜き去って「客体化する」ことを日常茶飯事に行っているのではないでしょうか。たとえば恋愛における「片想い」を考えてみてください。スタンダールの「ザルツブルグの塩」の比喩にもあるように、片想いとは、本人の人格とは関係ないイメージを勝手にその人に投影してその幻影に恋している状態ですから、一種の「もの扱い」と言えます。
もちろんここで「性加害」と「片想い」を同一視しようと考えているわけではありません。私が言いたいのは「人をもの扱いすること」には、犯罪から日常生活にいたるまで様々な段階があり、誰しも「もの扱い」を完全に免れることはできないのではないか、ということです。これについての哲学的な考察はいずれ書いてみたいと思います。