児玉聡『ミル『自由論』の歩き方』の最終回です。
議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。

第五講 自由はどこまで許されるか 『自由論』第四・五章
一、自由主義の諸原則

この章で問題となるのは「個人が自分自身のことで、ここは完全に個人の権限といえる範囲はどこまでだろうか」という問いです。要するに、個人の自由に関して社会が口出しできない範囲はどこまでか、という問いです。これに関してミルは条件を付けて、「社会で生きている限り、我々は他人に対する一定の行動規範を守らなければならない」と述べます。

「その行動規範とは、まず第一に、互いに相手の利益を侵害しないこと」です。
それが利益の侵害に当たるか当たらないか分からないような、微妙な領域は存在しないのか。また利益が侵害されたと誰がどのように判断を下すのか。たとえばあなたが起こしたアクションに対して、誰かが「利益を侵害された」と申告すれば、それは侵害に当たるのか、という疑問が湧きます。

「第二に、社会とその構成員を危害や攻撃から守るため、それに必要な労働や犠牲を(・・・)全員で分担することである。」社会の構成員を危害から守るためには、全員でコストを負担しなければならないということですね。ミルはここでどのような具体的なコストを思い浮かべていたのでしょうか?ただ19世紀にここまで考えていたことは驚きです。

さらにミルは次のように述べます。「個人の行為は、・・・・他人を傷つけることがありうるし、他人に対する思いやりを欠いたものであることもありうる。そういう行為をした者は、法律によって罰せられなくても、世論によって罰せられてよいのだ。」
ここでも先ほど述べた、誰がどのようにそれを「他人を傷つける行為」であると認定するのか、という問題が残ります。また著者はネット時代においては「世論による罰」が過剰になる可能性も指摘しています。「過剰」もそうですが、その罰が「正当」であることも必要です。法律ではない世論でどうやってその正当性が保証されるのでしょうか。

最後にまとめとして、今日の自由主義の基礎となっている4つの「他者危害原則」が列挙されます。
(1) 互いの権利を侵害しないこと
(2) 社会や構成員を危害から守るために公平なコストを払うこと
(3) 他人の心を傷つける行為(中略)は法ではなく世論によって罰してよい
(4) 他人に危害を与えない行為は、個人の自由を尊重すること

二、パターナリズムと選択的夫婦別姓

ここでは第二講で出てきたパターナリズムが、改めて否定されます。なぜならミルの言葉によれば「人が幸せに生きることに一番関心があるのはその人自身である」から、パターナリズム(他者への介入)は望ましくないのです。具体例として〈選択的夫婦別姓の問題〉が取り上げられます。ミルにしたがって考えるなら、選択的夫婦別姓は「そのカップルが一番自分たちの幸せについて関心がある」のですから、他の人が介入することなく認められるべきです。仮に夫婦別姓にした結果、そのカップルに不利益が生じたとしても、「人々が愚かな行為をすることを禁じるよりも、愚かな行為をする自由を認めた方が社会にとって有益」なのだとミルは主張します。これはかなりラディカルな主張だと思います。

三、他人へのお節介はどこまで許されるのか

ここまで読んで、ミルは「他人へのお節介」を許容しないのかと思いきや、むしろ推奨するのです。
その理由は次項で説明します。

四、自堕落な生き方は不道徳か

「ずっと酒を飲みながらオンラインゲームをして時間を浪費している」サトシという男性の例が挙げられます。
このような行為は「自分の利害にしか関わらないこと(・・・)は、道徳的には不正でないから規制の対象にはならないのですが、(・・・・)愚かな行為であるという評価はできるわけです。」

ミルに従って考えると、このような自堕落な生活に対しては、「お節介」をして介入する方がよいとされます。ただし、自堕落な生活は道徳に反しているわけではないので、法や世論によって罰する(規制する)ことはできません。

五、モラリティ(道徳)とプルーデンス(自愛の思慮・分別)

前項を言い換えると、サトシに対してプルーデンスの領域では助言が必要ですが、モラリティにおいて問題があるわけではないので法において罰することはできない、ということになります。
たとえばカントはprivateなものも道徳に含まれると考えているのに対し、ミルは道徳をpublicなものに限定しています。
言い換えますと、「ミルの自由主義の根本には、このように法や道徳が入ることのできない私的な領域を確立するという考え方」が存在するのです。

六、自殺は個人の自由か

「たぶんミルなら、自由だと答えるだろう。」という仮の結論が与えられますが、詳細は割愛します。

七、ミルの立場に対する批判の検討

ミルの主張に対して、「そもそも「自分のみに関わる行為」というのは存在するのだろうか」という問いが生じます。ミル自身もこの問いには自覚的で、「基本的にプルーデンス(自愛の思慮)の問題が、他人に対する義務を果たせない状態になった場合には、法やモラリティ(道徳)の問題になる」としています。この解答でも十分ではないと思いますが、別の機会に考察してみたいと思います。

八、大学の文化祭でアルコール飲料の販売を認めてもよいか

議論の詳細は割愛しますが、「ミルの議論が面白いなと思うのは、個人の自由がもたらす大きな利益を考えるなら、危害と呼ぶかはともかく、ある程度まで社会の方で甘受すべき損害がある、と主張している点です。」という著者のコメントは注目に値します。

九、イスラム教と豚の例

ミルなら、イスラム教徒でない人が豚肉を食べる自由が認められるべきであると言うだろう、という仮の結論が与えられますが、詳細は割愛します。

十、飲酒規制の例
十一、一夫多妻制は許されるか

これらの項も割愛します。

十二、『自由論』第五章の簡単な要約

「原理の適用(応用」と題された章です。考えるヒントとして5つの論点があたえられています。
(1) 『自由論』の中に自由経済の話は出てこない。なぜなら商売は社会的活動だから。
(2) 事故や犯罪の防止といった、予防のための規制の是非。
(3) 人には奴隷になる自由はあるか。離婚の自由はあるか。
(4) 義務教育の是非。
(5) 官僚制の是非。

十三、学生の意見

「他者が自分の「心」に危害を加えた場合、それは単なる不快感とどのように区別し得るのだろうか。」という学生の疑問が紹介されています。これは私が前に述べた、「誰が、どのような方法で、ある発言なり行為なりを「危害」と認定するのだろうか」という問題につながります。ミルならば、命が脅かされるとか、所持品が盗難にあうといった「誰もが危害と感じること」ならば危害と認定すると思いますが、「心」の問題はどこまでいっても線引きが難しいです。難しいということは、法による規制はもちろん、世論による罰も慎重に行う必要があります。あるいは、法でも世論でもない第3の方法を探さないといけないのかもしれません(特にネットの時代においては)。

京都大学では「自由が保障された時に、個人がどう感じるか」についてコメントした学生が多かったように思います。
一方、「個人に自由が保障された方が、社会的な利益になる」という視点でコメントした学生が少なかったように思いました。

この書籍に関しては1月8日に京都大学で児玉先生のトークイベントもあるそうで、こちらも楽しみです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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